こんにちは~
今月、来月と劇場公開が目白押しの台湾映画 今月何と4本目
この映画は来週ネトフリに来るけど、ぜひとも劇場で見たい~、で、見て大正解
わたしが「乙女おじさん」と勝手に呼んでいる大好きな 陳玉勳監督 の作品、今回は「白色テロ」と呼ばれる「戒厳令時代」の話だというので、いつものポップな作風とは全く違うのか❓と思っていたのですが、いえいえ、やはり 監督色 が濃く、強く打ち出されていて、しかも、それが厳しい時代を描いても噛み合っていて、素晴らしいメッセージをもらいました。
最後は、心にじわ~っとこみあげるものが溢れて、勝手に涙に…
みなさんにも、ぜひ劇場で見てほしいです
今まで見た 陳玉勳監督作品
GYAO無料配信 總舖師(祝宴!シェフ) / 2013年
【追記あり】電影 消失的情人節(1秒先の彼女)/ 2020年
台湾電影 熱帶魚 1995年
大濛 IGより(サムネもここより)
大濛 ウィキ
【予告編】『霧のごとく』5/8(金)全国順次公開
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サトウキビ畑で未来を語る兄妹――「霧のごとく」本編映像
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感想ですが、ネタバレがありますので、イヤな人は読まないでください
生きていくために、被害者は加害者になる
すごい、と思ったのは、映画の最初にはっきりとこの映画のテーマが示されていること。
主人公の少女 阿月(方郁婷) は、サトウキビ畑で特高に追われ逃げる兄(曾敬驊)をかくまっている時に兄から「辛い時には、時計を速めて未来を思い描くといい」と聞く。また、その時に「 阿迷 と 阿水 という『雫』が、『雲』になり、人の役に立ちたいと『雨』を降らせる」という創作の物語も聞いている。
最後まで、この2つの話は、物語の根底を流れ、物語を支え続ける。
なぜなら、戒厳令時代の不条理に喘ぐのは、銃殺刑になった 兄 育雲 だけでないから。
この物語の登場人物のほぼほぼ全員が何らかの犠牲者であり、被害者でもあると同時に加害者でもあるから。
最初に 阿月 を騙して売春宿に売ろうとする 阿林仔(胡智強) もだし、 阿月 を助け出したはずの2日限りの相棒 趙公道(柯煒林) もそうだし、怖いものなしのはずの特高の 范春(陳以文 ) ですら、そう。
さらに言えば 阿月 の両親も。
阿月 だけが、まだ幼くて 加害者 の側面がないだけで、この時代の大人は、何らかの形で加害者でもある。でないと生きていけない時代。 阿月の兄 のように、加害者であることを否定すれば、それは 死 を意味することになる時代。
阿月 を助けてくれた 趙公道(柯煒林) も実は、拷問に耐えかねて、戦友を売ってしまった過去を持つ。また、 阿月兄の形見の時計 も本当は500元以上するものをちょろまかしたのも彼だ。
阿月 の両親もどうだろう、貧しさのあまり 姉の秀霞 を 童養媳 として売ってしまった過去を持つ。それで 秀霞 が幸せではなかったこともこの映画では明白に描かれている。
「戒厳令時代」とはそういう時代なのだ、ということを 監督 はイヤというほど見せてくる。
一般庶民が 被害者 というだけでなく、 加害者 ともなる、両面を持つ時代。
しかもそこに、クスっと笑ってしまう場面をいくつも放り込んでくる。
さらにはこの時代本当にいたという有名な盗賊 高金鐘(劉冠廷) の逸話まで登場人物に絡めて、笑いに変えてしまう。
思わず、 上手い と言いたくなったが、映画館だったので止めた。こういう名人技がすごすぎた。
昨日、ドラマの感想で 重い話 と 笑える話 を2時間で両立するのは無理なのだ、と書いたばかりだが、この映画では見事に両立、やはり名人芸というしかない。
だから、最後には 世の無常 を感じざるを得ない。
真面目に生きようとする一般庶民が、それがかなわず、被害者になる。だったら、今度は自分が騙す側になる、被害者にならないために、加害者側になってしまう…
その悪循環のループが断ち切られるためには、 阿月兄 が言うように、時計を何度も何度も廻さなければならなかったのだ。
阿月 が出逢う人たち ひとりひとりに意味がある
この映画、兄の遺体を引き取りに行く 阿月 が出逢う人々が、すべてどんどんつながっていく様がすごかった。
だから、どこで息をしたらいいのかわからない。
息継ぎをする間もなく、場面がどんどん変わっていく。
物語の本質に無関係の人がいない。出会いが、数珠つなぎにつながっていき、登場人物に 被害者/加害者 両面の行動とクスリ笑い を振りまいて、次の出会いへとつないでいく。
最初の 嘉義 から 台北 に行くまでにも、イヤな予感を思わせる「鳥」と「特高」の話があったし、そこから台北に着いてから、話が絵巻物のように流れていく。
その中で、自分がまるで 阿月 になって、ただただ 兄の遺体との対面 を信じて、7割ほどしか信じられない 趙公道 と行動を共にしていく。
緻密な舞台装置
この映画、絵巻物のように流れ、ぶつ切りに見えかったのは、明らかに美術スタッフのすごさ。
驚いたのは場面転換。今から70年以上前の台北をどうやって再現したのだろうか❓
最初の駅の場面こそCGだと思ったが、それ以降の街並みはどれもこれもセットだと思った。それが映画の画面のサイズとピッタリ合っている。
最初のレンガ作りのゴタゴタした人身売買されるような街から 趙公道 の馴染みの古物商、 姉 秀霞 の暮らしている 南京西路(だったか❓)付近 や レビュー舞台 …
さらに 斎場 とそこに至るまでの川沿いの道。警察や病院。 趙公道 の家 や、范春 の入りびたる医者の家。
川沿いの道だけはセットじゃなかったように思うが、とにかく、ちょっとずつしか映っていない場所が多いし、場面も結構変わるのに、あまりにも不自然さを感じないことにビックリした。
ものすごく緻密に計算されているのだろうと思う。
もしかして、撮影時の光量や、編集技術も関係あるのだろうか。
素人すぎてわからないが、あまりにスムーズな場面転換に考えるスキもなく、物語に引き込まれた。
なぜ、物語は変わったのか❓
この映画で、印象的だったのが、兄の時計の話と兄の語る物語だとは、最初に言ったが、ここで考えたいのは、どうして 兄の語る物語 が、 阿月版 と 秀霞版 では、変わってしまったのか❓
兄 は 育雲 という名前だから、「雲」になって「雨」を降らす、というのは自分の事だった。
でも、時代がそれを許してくれない。どんどん追い詰められて、 秀霞 に話すときには、自分は「雲」になれず「霧」になってしまい、風景の一部にもなれなかった…そういう話に変わってしまったのではないか❓
そして、中文タイトルの「大濛」もウィキによると台湾語での「霧」を指すことだという。
「霧」の時代、もしかして監督はこの「戒厳令時代」をそう捉えたのではないだろうか❓
兄は「霧」になり、風景の一部にもなれなかった…そう言ったが、「霧」は晴れる前の一時の「迷い」であり、兄が言うように時計を廻して未来になれば、「霧」も晴れるのだ。
そういう前向きなメッセージでもあると捉えたい。「霧」もまた両面を持つ言葉ではないのか❓
兄の語る未来
この映画には、後日譚がある。
阿月(潘麗麗) には、亡くなった兄を思うという意味を持つ 念雲(宋芸樺 ) という名の娘がいて、そして2000年頃に偶然(何年だか失念) 趙公道 と思わぬ再会を果たす。
再会は、サトウキビ畑で、時計を廻しながら兄が言った 未来 になっていた
だが、監督はこの再会をただの感動物語にはしない。
趙公道 は、あの時、時計をちょろまかしていたのだから…そして、それを 阿月 は知らないまま。
だから、感動の再会にはならないのだ。
趙公道 は、逃げるように時計を返して、そして、ようやく 彼 に未来が来たのではないか❓
だから、彼は最後にあのセリフを言ったのだと思う。ようやく 趙公道 に、 公道(正義) が果たされたのではないだろうか❓
これからが 趙公道 の人生の「出発」になる。彼に残された未来は少ない。それでも、未来は来た、兄と違って。
なぜ、これほど ハマる のか❓
今回も、わたしは 監督ワールド にどっぷりハマった。
それはなぜなのか❓
とにかく、自分のような凡人が持つ感情の中のイヤな部分も見ようと思えるように描いているからだと思う。
人はそんなに強くない。
弾圧の時代なら、やはり捕まらないように動いてしまうのが庶民だ。
自分や家族を守るためなら、仕方ないのだという立ち位置に立ってしまう。
でも、それが結果的にあの時代なのだ。普通の人が加害者になりえる時代。
今の日本、経済的に貧しくなり、どんどんギスギスしている。それを日々感じている。
そんな時、人はどうしたらいいのか❓どうすれば、また時計を廻すことができるのか❓
今の日本を見ても映画から学ぶ部分が多いと思う。
もう一度、ネトフリで見て、また考えたい。
今回も主役級の人から特別出演の俳優さんまで、どの俳優さんも素晴らしかったが、 趙公道役の 柯煒林 、香港の俳優さんだそうで、初めて見たけど、すごかった。
いい人そうで、そうでもない、でもやっぱりいい人、と、普通なら気のいい人が時代に合わせざるを得ない役が、とても合っていた。最後の老け役も上手かった。
この映画、台北映画祭で13部門のノミネートだそうで、それもうなずける。結果発表も楽しみ。
最後に兄役の 曾敬驊 、あのホルマリン漬けの状態も彼が演じたのだろうか❓悲しすぎる…
昔読んだ小説を思い出した。あまりにも小説のままだったから…
ホルマリン漬けのプールで死体が浮いてこないように沈めるバイトの話。誰の何という小説だっただろう。中学校の頃に読んだので忘れていたのに、あまりにも小説のままで、思い出してしまった。