在京オケの定期演奏会でこんな凄いものが聴けるのか…と驚きを禁じ得なかった名演。古楽器アンサンブルを組織し、オペラ指揮者としても世界の名門歌劇場と共演するアイヴァー・ボルトンが2019年の『第九』以来の読響との共演を果たし、魔術師のような音楽を奏でた。エルガーの最高傑作『ゲロンティアスの夢』はオラトリオでありつつ、激越なドラマ性はオペラそのもので、先日の東京・春・音楽祭『マノン・レスコー』でも読響とタッグを組んだ新国立劇場合唱団が、緻密でシリアスな合唱で貢献。オーケストラとの相性の良さを証明した。
ゲロンティアス/魂を歌ったテノールのトーマス・アトキンスは見たところ若い歌手だが、空間を切り裂くような閃光的な声質で、優しさや豊かさや英雄的表現もあり、現在世界中のオーケストラと歌劇場からひっぱりだこなのも理解できる。ゲロンティアスは抽象的な役で、プログラムには「ゲロンティアスという名の男」と記載されているが、別の資料によるとゲロンティアスとはギリシア語で「老人」を示し、その意味で普遍的な死にゆく魂を表徴した存在であるとも解釈できる。いまわの際に家族や友人に囲まれ、自分の魂が肉体から離れていくのを恐怖とともに感じている男を、地上に降り立った苦悶の天使が励ます。英国のバリトン歌手クリストファー・モルトマンが司祭/苦悶の天使を歌い、カリスマ的な歌唱で聴衆を圧倒した。
サントリーホールのP席には82名の合唱が並び、舞台上手には女声10名・男声8名の合唱が配置されており、これはエルガーの指定でもあるらしく、8年前のノット×東響でも同様の配置だったと思うが記憶が曖昧。字幕を追いつつ肉眼で合唱の人数を数えるのも楽しかったが、新国立劇場合唱団100名の素晴らしい貢献はただ一度のこの演奏会のためのものだと思うと、感謝の想いが尽きない。感極まる瞬間が何度も訪れ、オーケストラと合唱が溶け合う「煉獄(?)の音楽」は、まだ生きている自分が聴くことのできる最高の宝物であると実感した。
英国のカトリック信仰者としてのエルガーの葛藤や、血の滲むようなテキストの由来などを考えると、それだけでキリスト教とは無縁な自分との距離を測らずにはいられないはずだが、この壮大なオラトリオは今の自分にとって大きなリアリティがあった。この日の午後に東京に戻るまで、80代の母の救急搬送と入院、母より二つ年上の父の施設への入居などで奔走しており、「もう長くはない」と弱気なことを言う父に離れがたいものを感じつつ、それを断ち切ってサントリーホールに来た。親にはまだ生きていて欲しいが、肉体の衰えは確かにやってきていて、彼らの魂がこれからゲロンティアスのような過酷な旅をすることになるのなら、まだ地上にとどまってほしいと切望した。
二部ではゲロンティアスと苦悶の天使に加えて、天使役のメゾ・ソプラノが登場し、ラファエル前派のオフィーリアかダンテのベアトリーチェを彷彿させる花の刺繍の白いロングドレスを纏ったベス・テイラーが、この役を歌うのに彼女以外には考えられないほどの表現力を発揮した。この歌手でマーラー2番や「四つの最期の歌」も聴いてみたい。低音域がテノールと交じり合うような深みのある美声で、ほとんどコントラルトにも聴こえる。ソリストが最高のオーケストラと合唱に囲まれて「これ以上の幸福があるだろうか…!」という表情を何度も見せてくれたのが、尚更感動的だった。鳥が大きな翼を広げるように、ホールに歌声が拡がった。
林悠介コンマス率いる読響は最強音から繊細な弱音まで起伏に富んだサウンドを持続させ、巨大なスケールの世界観を描き尽くした。休符時のオルガンの(煉獄を想像させる)振動も身に沁みた。アイヴァー・ボルトンと読響の相性の良さにも驚かされたが、今年に入ってから読響をはじめ在京オケの演奏クオリティが凄いスピードで倍増しになっているような感覚がある。過去のフレームをワイルドに突き破って、未知の領域に飛び込んでいて、特に読響は進化が止まらない。ボルトンもいい時期に再登場してくれた。熟知しているスコアとはいえ、カーテンコールでの大喜びの様子は、ボルトンにとっても忘れ得ぬ名演となったことのあらわれだろう。
個人的に「死後の世界」には興味が尽きず、13歳のときから「身体の中にいる魂」がこの世界と調和していない、早く別のものになりたいという呪いにも似た渇望に囚われていた。神智学者のシュタイナーは「自死する者は肉体から抜け出すことで魂が癒されると思っているかも知れないが、それで魂が癒されることはない」と語った。
エルガーという作曲家の念動力の強さを再認識し(先日の大阪フィルと尾高先生のエルガー『交響曲第3番』では死後もなお補筆者に念を与えるエルガーの魂=DNAに驚愕)、ウィリアム・ブレイクの幻想絵画やフラ・アンジェリコの宗教画が脳裏にちらつく中、死を想うこと、見えない世界を想うことを忘れるまいと思った。

