ここでは楽しみのために読書するようになった。話すことも学んだ。
会話が人生で最大の楽しみの一つだって、君知っている？
岩波文庫　サマセット・モーム『モーム短編選（上）』より
『エドワード・バーナードの転落』58ページ

「君は以前だって読書をしていたよ」
「試験のための読書だった。人と会話をするときの話題のための読書
だった。知識のための読書だった」
（58ページ）

この作品は先日このブログで紹介した辰濃和男氏の『ぼんやりの
時間』の中で紹介されている。

エドワードは大恐慌の影響で父の事業が失敗し文無しとなった。婚約
者イザベルをシカゴに残し、単身でタヒチに渡る。彼の親友のベイト
マンは、イザベルに密かに恋心を持っている。そしてイザベルはいつ
までも戻らない婚約者が心配になり、ベイトマンにタヒチに飛んでも
らう。

エドワードにすぐ戻ってくるように説得に行ったのだ。「イザベルが
心配している」と伝えに行った。しかし2年間の南洋の孤島での生活
で彼は豹変していた。

朝家から会社まで急ぎ、夜まで働き、また帰宅して、食事をして劇場
にゆく－－それしかないじゃないか！　まあ、それで財産が築けるの
なら、それだけの価値があるのかもしれないね。僕には価値はないけ
れど、人さまざまだな。だが、もし財産が築けないなら、あくせくす
ることに価値があるだろうか？　とにかく僕は自分の一生をもっと価
値あるものにしたいのだ。（59ページ）

ベイトマンは戸惑う。彼のいう「価値」が自分の「価値」と大きく異
なっていることに困惑する。そこには大恐慌を体験したあとに表れた
人間の労働とその対価に対する考え方の変化が見られる。

あくせく働いて対価を得る。しかしこの対価は大不況のせいで消えて
無くなる。対価がそんなにはかないものなら、あくせく働くことにど
れだけの意味があるのか。自分が好きなように生きればいいのではな
いか。財産にこだわる必要など無い。それは儚いものなのだから。

このような考え方が90年のバブル崩壊とその後の長期デフレ時代に、
日本でも現れた。でも、人間には自分の考え方を180度転換させるこ
とに慣れていない。それはとても難しい。

「明日ぼくと一緒に出発しよう。そもそもここへ来たのは誤りだった。
こんな人生は君に向いていない」
「いろんな人生があるような口ぶりだな。君が考える人生とは、どう
いうものなのだろう？」
「それには答えは一つしかないに決まっているじゃないか!　懸命に
働いて自己の義務、つまり、自己の立場と身分に伴うあらゆる責任
を、果たすことに決まっている」
「で、どう報いられるのかな？」
「自分が計画したことを成し遂げたという達成感が報いだ」
「ひどく大仰な話だなあ」エドワードが言った。
（54ページ）

辰野氏は、人間は「エドワード」であるべきではないかという指摘を
『ぼんやりの時間』の中で試みている。それが説得力があるのかは半
信半疑である。

エドワードはシカゴを脱出する。タヒチに行く。そこでは当然イザベ
ルもベイトマンもいない。いないから、彼らの価値観からも逃れるこ
とができた。そうすることでタヒチという独特のゆったりとした時間
の流れる島で、独自の価値観を築くことができたのだ。

私はエドワードの価値観にあこがれるし、いつかはこんなゆったりと
した時間を得てみたいと思う。しかし、現在の私は「ベイトマン的」
である。その価値観を古いものと断定することはできない。だがその
一方で、「エドワード的」な何かが存在すると言うことを知っておく
べきであろうと思う。

ベイトマンの主張が唯一無二であるという考え方はどこか毒されてい
る。日本はタヒチではない。すぐに職を失うリスクが高まっている今
日、エドワードのように振る舞うのは、かなりのリスクを背負う勇気
のいる行為である。それ自体はとても残念なことだ。

可能性がないのではない。可能性がないと思い込んでいるのは自分自
身である。自縄自縛である。思い切ってすべてを捨てれば、誰だって
タヒチに行くことができるのではないだろうか。「タヒチ的」な何処
かへ。

それは本当に無理なのだろうか。無理だと決めつけていないだろうか。
私はそう考えることが重要ではないかと思う。結果は別として。
エドワードの言葉である。

人は、全世界を手に入れても魂を失ったら、何にもならないじゃない
か。ぼくは自分の魂を手に入れたと思う
（66～67ページ）

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