「いやあもう、集中力が切れそうになっちゃって。こんなことを
言う人は、いったい誰なんだろうと思いましたよ」
新潮社　田村明子『氷上の光と影』77ページ

選手には、外の音がどれくらい聞こえているものなのだろうか。
村主章枝がソルトレイクシティ五輪のフリーで氷上に出て、
ベートーベンの「月光ソナタ」のメロディがはじまるのを待っ
ていた。静まり返った観客席から、誰かが日本語で叫ぶ声が聞
こえてきた。
「村主、光を放て！」
（77ページ）

このあとに冒頭の引用文が続く。張り詰めたリンクのど真ん中
へ、こんな吹き出してしまいそうなセリフを言う。しかも堂々
と自信というかある種の確信を持って言う。こんな人は日本に
はひとりしかいない。

この部分はこの本においてあまり重要な箇所ではないのだが、
やはり一番印象に残ってしまう。そして、次のページをめくり
その声の主が明らかになるとやっぱり「ぷっー！」と吹き出し
てしまう。（声の主は本でお確かめください）

しかしこの部分を読むと、いかにフィギュアスケート選手は競
技前に緊張し、観客に飲みこまれそうになるのを必死でこらえ
ながら自分自身に集中しているのがよくわかる。選手が繊細で
なくてもみんな繊細に見えてしまう。

田村明子氏の『パーフェクトプログラム』をとりあげたことが
ある。この本は前著よりも少し前、2007年1月に書かれた本で
ある。スケートリンクの内外で繰り広げられる様々な戦いに、
スポットを当て、フィギュアスケートという競技が何であるの
か、読者に問いかけてくる。それは「これでいいのか？」とい
う現状に対する著者の批判のようにも聞こえる。

素人である私がフィギュアスケートに関して一番気になること
はと問われれば、「コロコロと変わり複雑きわまりない採点ル
ール」であると答える。

新採点方式が非難される理由は、ほかにもあった。
「この採点方式はフィギュアスケートの美をすっかり奪ってし
まいました」
そう断言するのは、歯に衣（原文では「を」が入る）着せぬ発
言をすることで知られている米国のジョニー・ウィアーである。
「体をねじった姿勢で回るスピンなど、少しもきれいではない。
そんなもの誰が見たいと思うでしょう？　でも難易度が高いと
されれば、レベルを上げるためにやらなくてはならない。やり
たくなくても、勝つためには選択の余地がありません」
（200ページ）

これが事実であるなら、フィギャアスケートはすでに「美しさ」
を求めていないということだ。少なくとも採点をするジャッジ
の眼から見ると、「美しさ」よりより「高い技術」と「正確さ」
の方が優先度が高い。

「そうではない」という反論があって然るべきと思う。しかし
素人目線から見て、演技の綺麗さと出てくる点数とのギャップ
に違和感を覚えることが多いのも事実だ。

このような違和感があるから、「金メダルを取ったのは○○だが、
私は○○の方が上だと思う」というむなしい議論が生まれるので
ある。これは選手はもちろんジャッジにもいいことなどないは
ずだ。やはりメダリストが一番かわいそうである。

これはかなり難しい、やっかいな問題である。
そもそもなぜ新採点方式が必要であったのか。

かつての名選手、ジャネット・リンは「転んでも満点」といわ
れるぐらいに美しく見る者を魅了する選手だった。私にとっては
カタリナ・ヴィットがそうであった。この種の美しい選手が異常
に高い点数を出すのが「ひと昔前」のフィギュアスケートだった
のだ。

ジャッジも人の子、同じことをやったら美しいほうが勝つのは
このスポーツでは当然のことだった。（124ページ）

これへの反省から出て来たものが新採点方式ではなかったか。
フィギュアスケートは美男美女コンテストではないのだ。これ
を排除するための絶え間の努力の結果ではなかったか。私たち
はもう一度この点を理解し直さなければならない。

まさに「客観性」と「主観性」のさじ加減である。それまでは
極力排除されるべきであるとされた「主観」が本来どこまで許
されるのか。極端なことを言えば、人間がジャッジすることを
あきらめ、ロボットやAI が「完璧な客観性」をもって判断する
ということが理想なのだろうか。

おそらくそうではないだろう。だからといって「主観性」を高
めろ、というのは単に昔に戻るだけで、結局いつか来た道を再
度歩むだけのことになってしまう。これでは時間の無駄である。

この本は採点方式についてだけ書かれたものではない。田村明
子氏は、プロのコーチや振り付け師といった人たちの存在が、
ますます勝負を分ける鍵になってきていると指摘する。音楽選
びもまた重要である。

前半の部分ではフィギュアスケートが抱えている「黒い霧」に
ついて言及しているが、私はこれはものすごい勇気の要る仕事
だったのではないかと思う。下手をすればフィギュアへの不信
感を増長させかねないからだ。

しかし、フィギュアスケートを楽しむ人にとって、現在のフィ
ギュアスケート界には霧が立ちこめている、という認識を持つ
ことはとても重要だと思う。霧ならば何時かは晴れるだろう。
もっとみんなが声を上げればいいと思う。素人だろうが玄人だ
ろうが関係ない。みんなフィギュアスケートが大好きなのだ。

「完璧な採点方式というものは、おそらく存在しないでしょう」
テッド・バートンは、そう語る。彼は真摯にエネルギーを傾け
て、この新採点方式を開発した。
「フィギュアスケートの判定が世間から非難を浴びて、社会か
らどうにかしろと言われた。だから誠意を持って対応し、どう
にかしたのです。したらしたで、こうしてまた批判されている。
でも正しいと思う方向に信念を持って進んでいくしかない。も
う後戻りはできないんです」（203ページ）

フィギャアスケートとは何なのか。ファンや選手が一緒に考え
ていけばきっといい方向に進んでいくと、私は信じている。

氷上の光と影知られざるフィギュアスケート/田村明子

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村主、光を放て！ーー『氷上の光と影』