ひとりでいる時間は、一生のうちできわめて重要な時間である。
岩波新書　辰濃和男『ぼんやりの時間』169ページ

ひとりでいる時間は、一生のうちできわめて重要な時間である。
ある種の原動力は、私たちがひとりでいる時にだけ湧いてくる。
芸術家は想像するために、作家は考えを深めるために、音楽家は
作曲するために、そして聖者は祈るために、ひとりにならなけれ
ばならないことを知っている。（169ページ）

まずこの本の内容にふれる前に、この本について書店で起こった
「不可思議」なことについて書いておこう。

私はある日の昼休みに、いきつけの書店の本棚に表紙を向けて
並んでいた同書を見つけて買おうと思ったが、仕事が終わって
から書店に寄ろうと思い、その時は買わなかった。

しかし夜になって行ってみると、その本棚には別の出版社の別の
新書が置かれていて、この本が見あたらなかった。「もしや」と
思い、その別の新書を取り除いてみると、この本があった。

別に日に私は違う新書がほしくて、また同じ書店の新書コーナー
で本を探していると、ある50代とおぼしき男性がその書店の女性
の店員を連れてこの本を探していた。

ふたりの会話を聞いていてこの『ぼんやりの時間』を探している
とわかったが、この本があった場所にはまた別の出版社の別の新
書が表紙を向けて置いてあったのだ。

一度なら偶然かもしれないが同じ事が二度あるということは、
これは意図である。意図的にある者がこの本を隠したのである。
悪意をもって。書店でこのようなことがあるというのは悲しい
ことである。

辰濃和男氏は元朝日新聞の記者で、氏のもっとも有名な仕事は、
その全盛期における「天声人語」のコラムニストとしての仕事で
ある。1975年12月から1988年8月まで足かけ13年間執筆を担当し
た。「天声人語」の長い歴史で10年以上担当したのは辰濃氏以外
にいない。

冒頭の引用文はリンドバーグの『海からの贈りもの』に出てくる
名文である。

そして、くどいようだが、ぼんやりする時間を持つには独りが
いい。
リンドバーグは書いている。
「わたしたちはいまこそ、『ひとりでいる』ということを、もう
一度はじめから学びなおさなくてはならない」（170ページ）

辰濃さんはこの本の「はじめに」に、この本の主旨を明記する。

この本の主題は、「ぼんやりすること、休むこと、懶惰であるこ
と、閑なこと、それらをたのしむことのすばらしさ」を考えると
いった、けったいなものになるだろう。

あわただしく、せちがらいこの世を生きて、ぼんやりとすること
の大切さを考えるなどというのは時代錯誤のタワゴトだよといわ
れるかもしれないし、年寄りの世迷いごとだといわれるかもしれ
ない。

職を奪われ、働きたくても働けない人がたくさんいる。長時間労
働でくたくたになっている人の数も半端ではないだろう。それが
戦後60年以上たった日本の現実だ。「ぼんやりとはまた、いい
ご身分だね。わしら、そんな余裕、ありません」。そういう人の
声が聞こえるようだ。
（13ページ）

この本は「労働を尊ぶ精神」の否定ではない。それはこの本を
読めば立ち所に理解できる。しかし辰濃氏はそう思われても仕方
ないと覚悟の上でこの本を世に送っている。

もっと自分の時間と持ちたい、家族とのふれあいの時間を大切に
したい、長期休暇を取って見聞をひろめたい、家に帰って早く寝
てしまいたい。「そんなことはできない」と勝手にそう思ってい
ないだろうか。それは「労働を尊ぶ」ことと無関係であるのに。

私は40代に入って、自分の可能性が狭まったと思っていた。もう
先が見えた、とか、この道以外に自分の生きる道はないとか、
私には守るべきものがある、とか。確かにそう感じていた。

しかしこの本を読んで、それが間違いであることに気が付いた。
可能性を狭めたのは自分自身だった。自分が勝手にそう思った
だけである。実はそう思うことで自分自身に言い訳をしていたの
である。もう冒険する季節は終わったと。

可能性を限定したのは他ではなく自分自身だ。それは体のいい
責任転化だ。限定しておいた方が何かと都合がいいし、自分を
現状のまま変えずにすむ言い訳になる。

可能性は常に広い。そう考えておかないとこの「世知辛い世の中」
では何もできなくなる。実はそう考えさせる「邪悪な力」が働い
ていたのだ。だから心の底で「休みたい、ひまがほしい」と願う
人こそ、辰濃氏のメッセージに拒否反応を示す。

本来断固否定すべき立場の方々は、そのような洗脳された人がい
るおかげで、自ら声を上げ、悪者にならずにすむのである。

この本は名著である。そしてこの本の存在意義は大きい。
それは意図的にこの本の上に他の本を置いた人の存在からも明ら
かである。

誰が他の本を置いたのかはどうでもよい。なぜ置いたのか、なぜ
この本が隠されなければならないのか。私自身がそれを考えた。
私はその犯人に感謝しなければならない。

ぼんやりの時間 (岩波新書)/辰濃和男

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ひとりでいる時間は、一生のうちできわめて重要な時間であるーー『ぼんやりの時間』