やっと後、10%くらいを
残して
父の事が終わりました。
私の結婚事からはじまり、
3月11日の、地震。
地震で母の写真が鴨居から畳へ落ちて、私が鴨居まで手が届かないので、箪笥へ立て掛けておきました。
この頃は、すでに「出て行け、仕事場を移せ、女としてなってない!」
等等等。罵倒されていた最中。
私の婚約中の破棄。
父へは観えないように、兄から私への嫌がらせ(影では、伯母からの指示)。
地震から1週間後、母の写真を父が脚立へ乗り元の鴨居へ戻そうと一人で乗っていて、脚立が壊れ潰れ肋骨4本折りました。
母が亡くなってから、私は自宅仕事へ切り替えた。お湯を沸かしていた事を忘れてしまう父(ただの老化)。歳相応の忘れ等はあったが為、私が自宅にいた意味が、兄には伝わりませんでした。
肋骨が折れた事から、この年に亡くなりました。
この当時、あらゆる事や
あらゆる人(他人)が、ザワザワ
ゆん家へ出入りし
全く、ゆん家での話し合い等まとまらず
父の肋骨手術での入院も、私は、誰からも知らされませんでした。
私の普通は、普通兄から私へ知らせるのでは?
と、思ってましたが
今となっては、普通って無いですね。
退院後、父から
「お前は親が入院したって来ない
」と怒鳴られ
"入院して手術した事さえ誰からも知らされなかった!どこの病院へ入院したか?知らないのに、行けない!"と、父へ言っても、
「そんな事がある訳無い!」
と信じてくれませんでした。
当時、私が病院を知らないのに、私の元職場の店長が父の病院へ見舞いに行っていた事が不思議です。そして何故?私へ知らせなかったのか?
今となっては
ものすごく恐ろしい伯母の策略。
最後の入院した病院では、あれだけ私が父の看病へ行っていた事さえ
父の四十九日時。
「あんたは、父親の見舞いにも1度も来ないで
」
と、わざと親族が多数いる中で罵倒されました。「来たなんて嘘言わないで
私(伯母)がどれだけ弟の面倒観ていたか」と
病院で散々伯母に会い、私が毎日行っていた事の全てを封印しようとしていました。
これは、兄も一緒です。葬儀までの間、兄の友人が来るから。「ゆんは出てくるな」と言われたので、仕事部屋へ行きました(隠れました)。
直ぐに、玄関から兄彼女があがってきて、お茶の用意をし、近所の消防の方々が40名程玄関へ並びました。
これも、四十九日時に、兄より「消防の人が、来たってお前はお茶も入れねーで
」と嘘ばかりでした。
と、伯母等がこんな虚言を並べても今の時代、私と友人等のメールのやりとりは日時で残りますね。父の入院中の心配事を友人等へメールしたり、電話したり無意識にやっていた事が良かったです。
意味が、わからないまま
当時、婚約破棄事で女性センターや弁護士さんもいてくれて助かりました。
病院でのレシートを取っておく事。
大事な物は今のうちに自分の部屋へ持ってきておく事。(私は当時意味がわからず、大事な物は印鑑類と、お金通帳、お客さんのカルテ。手に持てる物しか部屋へ持ってきていませんでした)
父は入院中、うすうすわかってきたのか
寝たきりの父へ、伯母がおおい被さり
「ゆんちゃんなんかに面倒みてほしくないよね
」と、言った一言から
父の態度が変わりました。
やっとやっと父は首を横に振り
伯母は肩をガックリ落とし、病室を出ていきました。
エレベーターまで帰る後ろ姿を私が見に行くと、伯母はガックリ肩を落としたまま。
今だに、この伯母の父への何の怨みが、伯母の行動に出たのか、わかりません。
いろいろ、終了間近な今。
今年は起こった出来事の感情の整理をすると共に
2011年は、父が地震により肋骨を折った事から亡くなった。事に、誰も目視しようとする人がいなかった事に私は悲しかったです。
私意外の全ての親族が、すぐさま遺産事へ意志が向いていたのかと思うと
腹正しく思います。
6年後の今日で、やっとここまで気持ちがまとめられました。
来年は、どこまでまとめられるのか?
今日は、亡くなった人達へ祈ろうと思います。
残して
父の事が終わりました。
私の結婚事からはじまり、
3月11日の、地震。
地震で母の写真が鴨居から畳へ落ちて、私が鴨居まで手が届かないので、箪笥へ立て掛けておきました。
この頃は、すでに「出て行け、仕事場を移せ、女としてなってない!」
等等等。罵倒されていた最中。
私の婚約中の破棄。
父へは観えないように、兄から私への嫌がらせ(影では、伯母からの指示)。
地震から1週間後、母の写真を父が脚立へ乗り元の鴨居へ戻そうと一人で乗っていて、脚立が壊れ潰れ肋骨4本折りました。
母が亡くなってから、私は自宅仕事へ切り替えた。お湯を沸かしていた事を忘れてしまう父(ただの老化)。歳相応の忘れ等はあったが為、私が自宅にいた意味が、兄には伝わりませんでした。
肋骨が折れた事から、この年に亡くなりました。
この当時、あらゆる事や
あらゆる人(他人)が、ザワザワ
ゆん家へ出入りし
全く、ゆん家での話し合い等まとまらず
父の肋骨手術での入院も、私は、誰からも知らされませんでした。
私の普通は、普通兄から私へ知らせるのでは?
と、思ってましたが
今となっては、普通って無いですね。
退院後、父から
「お前は親が入院したって来ない
"入院して手術した事さえ誰からも知らされなかった!どこの病院へ入院したか?知らないのに、行けない!"と、父へ言っても、
「そんな事がある訳無い!」
と信じてくれませんでした。
当時、私が病院を知らないのに、私の元職場の店長が父の病院へ見舞いに行っていた事が不思議です。そして何故?私へ知らせなかったのか?
今となっては
ものすごく恐ろしい伯母の策略。
最後の入院した病院では、あれだけ私が父の看病へ行っていた事さえ
父の四十九日時。
「あんたは、父親の見舞いにも1度も来ないで
と、わざと親族が多数いる中で罵倒されました。「来たなんて嘘言わないで
病院で散々伯母に会い、私が毎日行っていた事の全てを封印しようとしていました。
これは、兄も一緒です。葬儀までの間、兄の友人が来るから。「ゆんは出てくるな」と言われたので、仕事部屋へ行きました(隠れました)。
直ぐに、玄関から兄彼女があがってきて、お茶の用意をし、近所の消防の方々が40名程玄関へ並びました。
これも、四十九日時に、兄より「消防の人が、来たってお前はお茶も入れねーで
と、伯母等がこんな虚言を並べても今の時代、私と友人等のメールのやりとりは日時で残りますね。父の入院中の心配事を友人等へメールしたり、電話したり無意識にやっていた事が良かったです。
意味が、わからないまま
当時、婚約破棄事で女性センターや弁護士さんもいてくれて助かりました。
病院でのレシートを取っておく事。
大事な物は今のうちに自分の部屋へ持ってきておく事。(私は当時意味がわからず、大事な物は印鑑類と、お金通帳、お客さんのカルテ。手に持てる物しか部屋へ持ってきていませんでした)
父は入院中、うすうすわかってきたのか
寝たきりの父へ、伯母がおおい被さり
「ゆんちゃんなんかに面倒みてほしくないよね
父の態度が変わりました。
やっとやっと父は首を横に振り
伯母は肩をガックリ落とし、病室を出ていきました。
エレベーターまで帰る後ろ姿を私が見に行くと、伯母はガックリ肩を落としたまま。
今だに、この伯母の父への何の怨みが、伯母の行動に出たのか、わかりません。
いろいろ、終了間近な今。
今年は起こった出来事の感情の整理をすると共に
2011年は、父が地震により肋骨を折った事から亡くなった。事に、誰も目視しようとする人がいなかった事に私は悲しかったです。
私意外の全ての親族が、すぐさま遺産事へ意志が向いていたのかと思うと
腹正しく思います。
6年後の今日で、やっとここまで気持ちがまとめられました。
来年は、どこまでまとめられるのか?
今日は、亡くなった人達へ祈ろうと思います。