床ノ山巡礼記

床ノ山巡礼記

床山が読んだ本の感想を通して日々思ったことを漫然と書いていくブログです。当方、髪結いの床山とは一切関係のない、一介の肉体労働者に過ぎません。

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八月、ジェームズ・M・ケインの遺作「カクテル・ウェイトレス」が新潮文庫から刊行されましたね。これは本邦初訳とのこと(米国ではいつごろ出版されたのかは知りません。つまりこれがどれくらい幻の作品なのかわからんということですな)。ちなみに自分はまだ読んでません。
ジェームズ・M・ケインといえば「郵便配達は二度ベルをならす」が有名。で、これも絶版だったところ同じ訳者(田口俊樹)の新訳が新潮文庫から同時刊行されました(とはいえ一月前、七月に光文社古典新訳文庫から池田真紀子訳が刊行されていたんだけどね)。

推理小説にまるで興味のない自分がジェームズ・M・ケインに興味をもったのは、小林信彦がミステリーベスト10かなんかの1位に「郵便配達」をあげていたのがはじめ。この時点ではまだ「ふーん」って感じ。というのも小林さんの小説と東京についてのエッセイとどちらも好きでまめに読んではいたものの、映画や小説の好みは自分とちょっとズレてるなーと思っているので。
「郵便配達」の映画版については学生時代にヴィスコンティのを見て、「うわー、エロっ!」と感動して(ネットで誰かが、ヴィスコンティ版は同性愛色が強くミステリーとしての側面が弱い、中弛みしていたと書いてたけど、それはその通りだった記憶がある)、原作も恋愛を描いてパワーのある小説なのかもと興味をもった記憶がある。が、野暮な自分は学生時代は恋愛小説よりも重厚な(人生を考えさせるような)人間ドラマを求めていたので、この時点でもやはり暇だったら読もう、あるいはムラムラしたら読もう程度でした。
ところがこの度、毎週楽しく立読みしている週刊文春の坪内祐三の書評連載「文庫本を狙え」で「カクテル・ウェイトレス」が取り上げられているのを読んで、やっと読もうという気になりました。坪内は自分同様ミステリーに興味がないらしいけど(まあそりゃそうだろうね)、そんな彼にも例外の作家がいて、それがチャンドラー、ハメット、ケインだというのだ(ハメットは「マルタの鷹」の改訂新訳が出た時取り上げてましたね)。ちなみに坪内はこれまた自分同様、恋愛小説は好きなんですね(さっき言ったパワーのある小説というのは、卑猥という意味じゃなくて、恋愛が書けてるものを指す。学生時代は卑猥とごっちゃになってたけど、この人間不可避のエロースという貴くも危なっかしい欲求は機械化してない人間の根源的な活力だと思う)。そもそも小説すら大して読まない坪内が好んで読むということは、恋愛ものか義理と人情ものかのどちらか、さしずめケインなら恋愛ものだろうなと思ったわけですね。つまり、たんなるエロティックミステリーではないのだろうと当たりをつけたわけです。
ちなみにかつて「ジェームス・ケイン選書」なるシリーズが刊行され(作者名が間違ってる)完結はしなかったのだけど、既刊分の前書きに三島由紀夫と日夏耿之介との名前が見えるとかいう話(坪内曰く)。ちなみに近代日本随一の批評家三島由紀夫が「文字通り巻置く能わず」と記していたらしい。どの作品かは知りませんが相当面白いんでしょうね。郵便配達が最高傑作らしいし、まあこれを読めば外れることはないでしょう。

かねてより日本の古典的近代小説には恋愛を書いたものが少ないと不満をもっていたので(そもそも近代小説は真の意味で古典たり得ないのだが。そして俺は大して小説を読んでいない)、その欠損をクンデラなりロレンスなり海外小説で満たしていた自分は、ここに新たにお気に入りの作家が書架にふえることを祈念して読みはじめたのであります。「カクテル・ウェイトレス」ではなく「郵便配達」を。

で、読んでみたら、会話が多いせいかキャラがよく立ってて面白く読めたというのが第一印象で、第二が「これってカミュの異邦人じゃね?」でした。「異邦人」が発表されたのは「郵便配達」より数年遅いし、カミュが推理小説を熱心に読んでいたという記録もあるらしいので、郵便配達元ネタ説はそもそもあったらしく、両方読んだ身としては、まあ確実に骨格を転用してるだろうなと思いながら読みました。とはいえカミュは哲学者だし、実際文章の重厚さも全然違うので、当時の読者はその点に気づきつつ「でもカミュこそ芸術だ!」と考えていたんでしょうね。まあ今日読んでも同じような印象を受けますよ。
でもまあ、芸術かどうかって考えさせるために文章が一貫しているかどうかがポイントだと思うのですが、「郵便配達」は果たして考えさせられるという点で「異邦人」に負けているかというと(まあ実際は読む人によってまちまちだろうし、これは大して意味のない問いなのだけど)そうでもないんじゃないかなと思う。もちろん無駄は多いけど(つまり娯楽的な要素)、その軽さがいいか悪いかというと、逆にいいんじゃないかなと思ってしまう。なんでかっていうとですね。カミュの重厚さは近代小説の重厚さ、密度は濃いけど内向的な、人を孤独にさせる重さであり深さなんですね。一方郵便配達の方はというと、確かにこれは娯楽小説といってしまえばその通りなのですが、内向的な重さを持たないラフな文章な分、エロースを巧みに捉えているという感触があるんですね。描かれたカップルの顛末は悲劇にも喜劇にも読めるのですが、その入りやすさも「芸術だぞ!」って感じがしなくて逆に本物っぽいんですわ(だって文化ってそもそも落ちこぼれのためのもんだし、それが読みづらくてどうすんの?)。さしずめ自分の結論は「異邦人」は古典「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のバリエーション、つまり「郵便配達」を読んで考えさせられたカミュが「異邦人」を書いたということですな。もちろん新しい哲学を得たということはなかったでしょうが、「郵便配達」がなかったらああいう形の小説は生まれていなかったでしょう(この事実の重さは「異邦人」の哲学的翻訳とされる「シーシュポスの神話」を評価するかどうかによって変わってきます。ちなみに自分は全然評価していませんので、こんな一見つまらない事実にこだわってしまいます)

「異邦人」との関連でヤケに持ち上げてしまいましたが、「郵便配達」は読んでいてハラハラする面白小説です。特に傑出したところがあるわけでもないありふれた男女をここまで注視させる腕前は大したものです。娯楽小説程度と見積もられていたからこそ、逆にこんなにも力強い作品が生まれたんですかね。さっきつい軽々しく古典といってしまいましたがいずれ本当に二十世紀の古典に数えられるかも、なんて考えてしまいます(くだらない妄想)。壁紙の染みを数えるような軽い気持ちで読まれてはいかがでしょう。