今日「クリスマスの思い出」を検証エッセイに投稿した。ダメもとで、まず100回挑戦したいと思う。上手な人がたくさんいるので、賞を取るのは大変なことだと思う。
楽しかったクリスマス
比留間 進
「今日は失礼します」と突然言うと、同僚のÅさんが勢いよく事務所を飛び出した。彼が定時の五時に帰るなんて、珍しいことだと思った。(今日はという言葉にやけに力が入っていたな)と思った時、(ああそうか、今日はクリスマス・イブなんだ)と気づいた。
子供たちが小学生だったころまでは、私も玩具やケーキとか、果物を買って、小走りに家まで帰ったものだ。次女のプレゼントは、デパートをいくつ回っても品切れで、妻に電話して途方に暮れたこともあった。彼女は小さいころからミーハーだったのだ。
しかし、月日が流れ、今年の四月に長女が家を出て、一人暮らしを始めたし、次女はデート、息子は大学受験でクリスマスどころではなかった。
「今年のクリスマスはなしね」といっていた妻の言葉を思い出した。それで二時間ほど残業して我が家につくと、出窓に小さなクリスマスツリーの電球が点滅していた。
ドアを開けると、テープルいっぱいのご馳走を前に妻と息子が待ちくたびれていた。
「遅くなってごめん。早く帰ってくればよかったね」と謝った。
「やっぱりツリーだしちゃった」と妻が照れ臭そうに笑った。きっと受験生の息子を少しでも励ましたかったのだろう。
それから妻は少し困ったような顔をしていった。
「ごめんなさい、たくさん作りすぎちゃった。昔のイメージってなかなか抜けないものね。お姉ちゃんたちに電話したけど二人とも忙しいですって」と妻は本当に困ったような顔をした。テーブルを見ると四、五人分の握りずし、ちらしずし、各種の揚げ物、餃子、マカロニサラダ、ソーセージ、大きな鳥の手羽、それにデコレーションケーキなどがあり、一〇人いても十分なほど並んでいる。
そういえば、昔は、我が家の五人のほかに、私の両親、姉夫婦とその二人の子供たち、独身の弟、伯父夫婦まで来て、にぎやかなクリスマスだった。そんな楽しい夜に、私はいつか子供たちが育ち、妻と二人きりのクリスマスを迎える日が必ず来るのだろうと、一抹の寂しさを感じたことがあった。
私は台所で洗い物をしている妻に向かって、自分の子供のころの話をした。
「子供のころのクリスマスは、本当に楽しかった。我が家は、六畳の和室と四畳半の茶の間、その隣に二畳の台所だけの小さな都営住宅に五人で住んでいたんだ。茶の間の真ん中に大きな掘り炬燵があり、その四角には、父、母、姉が座り、最後の一角に私と弟が座ったが、手や足がぶつかったといってはよく喧嘩していた。二人の間に境界線を作ってね、決してそこからはみ出さないという取り決めがあった。茶の間の隅には小さなテレビがあり、そこでいつも家族団欒があったんだ。クリスマスには隣の六畳に小さなツリーが点滅していた。
何か祝い事があるときの我が家のご馳走は、すき焼きと決まっていた。その中には、豚肉はわずかで、大半が父の好きなチクワブとシラタキで埋まっていた。でもクリスマスの日は、すき焼きのほかに鳥の手羽、クリスマスケーキなどがあってとても豪華だった。特にケーキは、誕生日以外に食べられず、子供たちにとっては最高のご馳走だった。弟は、そのケーキをいつも父と母の分を含めて三つ食べていた。弟が言うには、十二月二十四日が彼の誕生日だったことと末っ子の特権だったそうだ。彼がうれしそうに食べるところを、父も母も笑顔で見ていた。子供の笑顔が一番のご馳走だということを、私も親になって初めて分かったよ」。
台所から居間に来た妻は、お茶を飲みながらじっと目を閉じて私の話を聞いていた。もうなくなってしまった両親と囲炉裏の周りで祝ったクリスマスを思い出していたのかもしれない。彼女は、岡山県の山中の開拓者の家で育ったので、かなりユニークなクリスマスを経験したらしい。ちょっと目を潤ませて話し始めた。
「クリスマスのころにはね、父が山から大きなもみの木を切ってきて納屋に隠していた。そして一年間かけてためてきた、父のたばこの銀紙をきれいに剥がして星やサンタクロースなどの飾りを器用に作ってくれたの。私たちが寝てから1か月以上も二人で夜なべしたみたい。たぶん私たち三姉妹が目を輝かせる場面を想像しながらね。
クリスマスケーキは、蒸しパンにあんこを縫って母が作ってくれた。本当はデコレーションケーキが欲しかったんだけどね。父が台湾からの引揚者だったので、両親は貧しくて大変だったろうけど、山の生活は子供の私たちは本当に楽しかった。あのアンコのケーキ、もう一度食べたいなあ」。
(彼女の楽しかった子供時代のクリスマスはもう二度と戻らないのだ)と思いながら、私は妻に話しかけた。
「昔ね、『家族』というテレビドラマを見た記憶がある。ある日、白髪の老人が息子の家族と住む横浜の団地から一人で列車に乗って東北に旅立った。大雪の中をやっとの思いで茅葺の家にたどり着き、囲炉裏で薪を赤々と燃やすと、その明かり中からすでに死んだ奥さんや五人の子供たちがはしゃぎまわる姿が瞼に浮かんでくるんだ。きっと、出稼ぎから帰ってお土産を子供たちに渡したとき情景だったのだろう。そして、朝になるとその老人は冷たくなっていた。どんな温かい家庭も消滅し、永遠に返らない。それは意外に早く来るものなんだろうなあ…」。
我が家のクリスマスももうすぐ消滅してしまうのだろう。子供たちはそれぞれ独立し、私たちは二人で取り残される。たぶん来年からは二人きりのクリスマスが始まるだろう。
若い時から、私たちは子供たちとの同居だけはしないと決めていた。たとえ、理想的な二世帯住宅を作っても、子供や孫との同居はうまくいくはずがないと思っていたのだ。子供や孫たちと話が合うはずがない。家族の中で疎外感や孤独を味わうよりも、一人でいたほうがましだと思ったのだ。
私には子供たちと同居する家を出て、故郷に一人で帰った老人の気持がよく分かった。もし妻に先立たれ、一人残されたら、すぐに老人ホームに入ろうと思っている。私はずっと家族と生活し、一度も一人暮らしの経験がないので、掃除、洗濯、料理などほとんどやったことがない。若いうちならまだ夢があっていいだろうが、老人には孤独死という恐怖が待っている。所詮、人間は一人で生まれ、一人で死んでゆく運命にあるのだ。
老後の将来に不安を抱いていた時、アメリカ人の書いた本の中で、夫に先立たれた老婦人のエピソードに出会った。
「夫に亡くなられたばかりの老婦人が、毎年クリスマスに買い出しに行くスーパーに行ったが、夫を失った悲しさと寂しさで何も買うことができなかった。そして、帰りのバスの中で、涙を流しながら寝てしまう。目が覚めると、行ったことのない終点についていた。仕方なく降りると、教会のまえに二人の幼子が座っていた。話を聞くと、二人は孤児の姉妹だった。彼女は二人をドラッグストアーに連れて行き、クリスマスだからとお菓子やケーキを買ってあげた。お腹をすかしていた姉妹は、大喜びでお菓子をほおばった。それから教会に入って、クリスマスツリーを見せてあげると、姉妹は歓声を上げて喜んだ。そのとき、彼女は子供のころ両親にしてもらったクリスマスを思い出し、この孤児たちと比べて自分は何と幸福だったのだろうと考え、両親に深く感謝するんだ」。
妻は頷きながら言った。
「悲しい話ね。でも歳を取るってそういうことかもしれないわね。今からでも楽しい思い出をたくさん作りましょうね」。
私はこのエピソードを読んで、歳をとるとこれまでの楽しかった思い出が自分の支えになってくれるのではないかと考えた。そして、人生で温かい家庭がいかに大切かを教えられたような気がした。暖かい家庭で愛情いっぱいに育てられた人は、悪いことしないといわれるが、本当だと思う。人間には人から愛され、愛したという記憶がもっと大切なのだろう。
私は、これまで過去を悔やんだり、未来を心配しないようにしてきた。どちらも時間の浪費だと思ったからである。しかし、このエピソードを読んで、これからは楽しい思い出を抱きしめて生きようと思った。たとえ、妻に先立たれ一人きりになって、老人ホームでクリスマスを迎えても、三つのクリスマスの思い出がきっと私を救ってくれるだろうと思う。両親から受けた愛情いっぱいの子供のころのクリスマス、私が一家の大黒柱として妻や子供たちを愛したクリスマス、そして娘の家に招待されて、小さな孫たちと過ごした楽しいクリスマスだ。精一杯愛し、愛された思い出に感謝すれば、老後も心暖かく生きられそうな気がする。そして、孤独地獄になど決して落ちることはないだろうと思った。