小説作法原稿(平成十六年七月二日)

柔道と初恋

比留間進

 柔道場は、都立神大高校の正門からまっすぐ歩いていくと、一番奥の突き当たりにあった。木造平屋の幽霊小屋のような建物だった。昭和三十年代の古ぼけた灰色の瓦屋根の下の壁板には、何十年も前に塗ったと思われる水色のペンキが九割がたはげていた。入り口には、うっすらと読める「神大高校柔道部」という大きな看板がかかっていた。そのボロの建物が、いかにも長い歴史と伝統があるように思え、私たちには誇りだった。

 初めての練習日、三時三十分の集合時間には二年生が全員正座していた。十二人のうち十人が黒帯で、それは壮観な眺めであり、私の心はときめいた。一年生は、その向かい側に順次座らされた。そして、最後に現れた一年生が、「教室の掃除当番で遅くなりました」と言い訳した。

まず、二年生の自己紹介から始まった。柔道部の顧問だった中村先生は、一度も道場に顔を見せたことがないということだった。そのためか、神代では、部長と主将の二人がいた。部長は対外的なことを代表し、練習は主将が責任を負うことになっていた。橋本部長は、痩せていて背が高く、きれいな顔立ちなのでいかにも女子に持てそうなタイプだった。一方毛塚主将は、蟹股でがっちりした体躯で、お百姓さんのような顔で笑うとなんともいえない愛嬌があった。

「授業が終わったら教室の掃除などするんじゃねえ。駆け足で道場に来て、道義に着替え雑巾がけをするんだ。それから、先輩とはな、道で会っても、便所で会っても、『ちわっ』と大声で挨拶することだ」などの注意事項を話した後、毛塚主将が鼻にかかった声を一層高めて言った。

「下級生は上級生に絶対服従だ。三年生は神様、二年生は天皇、一年生は奴隷なんだ。『あのカラスは黄色いな』と先輩に言われたら、『そうであります』と答えるのだぞ。わかったな。返事はどうした」

「わかりました」と私たちは大声で答えた。

準備体操の後、毛塚キャプテンが、『補強』といった。腕立て伏せ三十回、大きく股を開いた腕立て二十回させられたが、木下という一年生が一回もできなかった。三人の三年生が彼を囲み、「一回でもいいからやれ」と激励していた。そのあと、三分間の腹筋、「帯を見て足を三十度の角度に上げろ。後三十秒、死んでもがんばれ」という先輩の声が飛んだ。更に、「ブリッジ」という主将の声が流れるように続いていく。ブリッジとは、仰向けになって、頭と両足だけで体を支える三角倒立といわれるものだ。先輩ははじめ軽く手で押すだけだが、なれてくると腹の上に乗ったりもした。補強体操の中で、一番つらかったのは「ずり」だった。腹ばいになり、ひじだけで道場を何往復もするのだ。私たちの肘は擦り剥け、血がにじむ。かさぶたができても、翌日にはそれがはがれてまた血が出るので、一年生の分厚い道着が、みな血で染まっていた。補強運動が限りなく続き、私たちの体力の九十九パーセントがそれで失われた。

その後の五分間の休憩時間は、天国にいるように思えた。「座ってはいけない」といわれ、私たちは窓枠に手を置いて、やっとの思いで立っていた。これから続く苦しみを思うと、水溜りにできる輪を物悲しい気持ちでじっと眺めたことがある。

補強の後は、寝技で、一年生と二年生が背中合わせに座り、主将の合図で、寝技の練習になる。なれている二年生がどの組でも上になり、休むなと下の一年生に言いながら休んでいる。私たちは必死で逃げようとして足をばたつかせるがどうにもならない。先輩が、帯で動かない一年生を容赦なくたたいた。

それから、やっと乱取りに入るのだが、疲れきってしまい、とても技をかけるどころではなかった。立っているのがやっとだったので、一年生は、二年生に力ずくで投げられるのだった。これでは、柔道が強くなるはずはなかった。

私たちは、体力の限界を超え、帰りの電車の中では立っていることができず、つり革にやっとのことでぶら下がっていた。あまりに情けない姿を見て、おばあさんから席を譲られたことがあった。

土曜日は、練習時間が長時間になるので、更に大変だった。食事を終えてから、練習が始まるまでの重い空気が耐え難かった。藤田という八十キロ以上もある大男が、道場の真ん中で大の字になり、「さあ殺せ」と喚いていた。私たち一年生は、その重圧に耐え切れず、かばんをもってそっと学校を抜け出そうとしたが、二年生の「見回り組み」に連れ戻された。一度私は塀を乗り越えて脱走を図ったが、失敗した。一度うまく脱走できた者がいたが、翌日に連帯責任の下に、一時間以上正座させられたので、脱走者はいなくなった。誰か一人が集合時間に遅れても、連帯責任で腕立て伏せ五十回が待っていた。人間を統率するには、連帯責任はすばらしいやり方だった。

昼休みに、「増田さんが今日来るぞ」という声を聞くと、私たちの恐怖が最高潮に達し、私たちは蒼白になった。体の疲れより、増田さんの存在が恐ろしくて、空気がひどく重くなっていくのがわかった。

土曜日は、道着を着て、「わっせ、わっせ」といいながら、マラソンをし、学校の裏側にあった幅二メートルほど、長さ三十メートルほどの急坂まで走り、地獄の特訓が始まる。ダッシュを何回か繰り返した後、うさぎ跳びと手押し車が繰り返される。手押し車とは、二人一組となり、相手に足を持ってもらい、両手だけで坂を登っていくのだ。八十キロ以上あった酒井と藤田は、うさぎ跳びなどが苦手でのろのろ歩いているので、私たちは少し休めることができて助かった。二人は泣きそうな顔をして、泥だらけになっていたが、私たちには同情する余裕はなかった。やっと道場に戻ると、鬼の増田さんが道場に真ん中で大の字になって寝ており、それから恐ろしい練習が始まるのだった。寝技の練習で、百キロ以上の増田先輩に乗られると、私たちはその大きなお腹で窒息しそうになった。

そして最後に、声を出す練習があった。私たちは、校庭の一番端に一列に並ばされ、校舎の前にある銀杏の木の前にいる先輩に向かって大声を張り上げるのだった。「神大高校柔道部比留間」と何回も大声で叫ぶが、校舎側の先輩が「聞こえねえぞ」という言葉なくなるまで続けられる。私は中学時代野球部にいたので、声だけは自身があった。運動場の横のテニスコートがあり、クラスメートの岡根美恵子さんがテニス部の練習をしていた。紺の体操着に白いトレパンをはいて、ラケットで素振りを繰り返していた。胸のラインがはっきり出て、いかにも女性らしかった。ぼんやり彼女を眺めていると、「ぼやぼやするな」と怒鳴られた。翌朝、教室に行くと、「神大高校柔道部比留間」と、真っ黒に日焼けしたハンドボール部の女子から声をかけられ、照れくさかった。

一ヶ月あまりして、府中高校や世田谷工業との練習試合があった。先輩たちの唯一の教えは、「気合で圧倒しろ」だった。審判が「はじめ」と合図したら、「おりゃー」と大声をあげるのが、神大高校柔道部の伝統だった。声さえ出せばよいということで、私たちは投げられながらも、みんな気合を上げていた。空中を舞いながら、「やー」という気合を出していた。どちらが投げているのかわからない状況だった。私は得意の背負い投げで一本を取っていたが、仲間たちは全敗であった。その翌日の昼休みには、道場備え付けのバリカンで一年生全員が丸坊主にされた。午後の授業では、クラスメートの目が私の頭に集中し、恥ずかしくてたまらなかった。

一学期の最後に練習試合があった。一、二年生全員が、橋本部長と毛塚主将のチームに別れて試合があった。私はどんなに疲れていても、試合になると心が燃え上がった。「足癖の比留間」といわれ、足がもつれ合って倒れたとき、なぜか相手の上に乗っていて一本をとるのだった。なんで練習では、あんなに弱いのに、試合になるとなんとか勝ってしまうのが、みんな不思議に思っていた。それは、小学二年生から柔道をやっていたので、試合慣れためだったのかもしれない。毛塚主将は、私を大将に指名した。敵の大将の橋本部長が一人倒し、私との大将戦になった。橋本先輩は長身で、手足が長く、大外刈りを得意技とし、練習ではきれいに私を投げとばしていた。橋本先輩は、もう勝ったような笑顔を浮かべて挑んできた。私はこれまで五~六回の対外試合をしていたが、すべて勝っており、負ける気はしなかった。大内刈りと大外刈りだけに注意して、投げられないように腕を突っ張った。柔道というのは相手の得意技さえわかっているとなかなか投げられないものだ。時間だけが過ぎていったので、部長は、体が離れているにもかかわらず、あせって強引に大外刈りをかけてきた。その時を待っていた私は、大きな気合を発して返し技を出した。部長の体が急に軽くなり、空中に飛んだのがわかった。学校からの帰り道、「比留間、がんばったな」と、橋本部長が笑顔で言ってくれた。上級生から声をかけられたのは、初めてだったのでたまらなくうれしかった。後で聞いたところによると、馴れ合いになってはいけないので、一学期が終わるまで、二年生の間には一年生と口をきかないという申し合わせがあったそうである。

 夏休みが始まる前日には、練習納めの会があった。道場の戸を締め切って、ささやかな飲み物とお菓子と、アンパンをかじりながら、全員のかくし芸を見るのだ。一週間くらい前から、何をやるか考えておくようにと先輩から言われた。部室に大学ノートがあり、あらゆる種類の春歌などがきれいな字で書かれていた。私たちは、それを写しながら、何をやるか考えた。神大高校柔道部は、柔道は弱かったが、芸達者な人は多かった。

 私が一番感激したのは、忍先輩が朗々と歌った柔道讃歌だった。「ああ、柔道一筋に生きる喜びここにあり」という歌詞が好きで、私は例のノート見ながら必死で覚えたものだ。それから、神代風に歌詞を変えた○○節というのがいくつかあった。ツンツン節というのは、坂本九の歌で「俺は神代の一年生、胸に稲穂の金ボタン」から始まり「人生流れて五十年、今じゃ冷たい墓の下」まで十二番くらいまであった。私たち神大男児の一生が語られているようでジーンときた。「ツンツン」と全員で唱和しているうちに、私たちの心に一体感が生まれてくるのだった。ズンドコ節とは、「汽車の窓から手を握り、送ってくれた人よりも、ホームの影で泣いていたかわいあの子がわすらりょか……」から、これも何番も続いていた。神代節というのは、「東に清き多摩川を望み、西に遥か秩父連山をようす ここ武蔵野の一角に聳え立つ われ等神代高校柔道部……」という口上から始まり「えっさこりゃこりゃこの俺は、神代一のいい男」という踊りがあり、最後に「ここは調布か 仙川の町か……」という歌がつづいた。この神代節が私はたいそう気に入り、二年生からは私の持ち歌になった。東北へと向かう修学旅行の夜行列車の中で、私は神代節をやり、同級生や、たくさんの乗客を大いに喜ばせたものだった。その他に、オッピョとか、ヨサホイノホイ各種の数え歌があった。そのほかにも、便所の芸、ミンミンゼミの芸、子守唄の芸、一升瓶を使う芸など得意芸が飛び出し、私たちは、涙が出るほど笑い転げた。どれも卑猥なもので、初心な私にはわからないところがあったが、どこかペーソスがあり、胸にじんとしみるものがあった。私たち一年の中で最も受けたのは、酒井が歌った「どんぐりころころ」だった。よくもこんなにもいやらしい歌詞に変えられるものだとみんな感心した。私は、当時好きだった田端義夫の「島育ち」を歌ったが、全く受けなかった。後に五味川純平の「人間の条件」という映画で陸軍の内務班の場面を見たが、あれと同じだったと思った。しかし、あのような新兵に対するいじめの要素だけはなく、底抜けに明るい宴会だった。

合宿は七月の終わりから八月の初めにかけて千葉の岩井海岸で行われた。一ヶ月以上に思えたが、たったの三泊四日だったのだ。夜明けの浜辺での特訓に始まって、夕方まで猛練習が続いた。もうだめだと思い、「ああ、神様ここだけ乗り越えさせてくだされば、死んでもいい」と何度心の中で叫んだことだろう。練習をしていて、突然つばが出なくなり、口の中に指を入れると泡だらけになっていた。

練習が終わると、みんな井戸に飛んでいき、大量の塩辛い水を飲んだ。それから、近所の雑貨店に行き、冷たいサイダーを三本立て続けに飲んでも、のどの渇きはまったく癒されなかった。一番ほっとした時間は、一年生だけで風呂に入っているときだった。「もう死にそうだ、死にそうだ」という言葉ばかりだったが、裸の付き合いをし、同じ釜の飯を食って、私たちの結びつき強まった。

夜になると、増田さんなどOBや先輩のいる部屋に新入生は一人ずつ呼ばれた。合宿や柔道への決意表明をさせられた後、「神代で好きな女子の名とクラスをいえ」といわれた。「一年六組、岡根美恵子さんです」と私は迷わずに答えると、二年生がノートにつけていた。私の場合は、入学式の日から彼女に一目ぼれだった。好きな人がいなくても、女子の名前を答えざるを得なかったので、一年生全員が恋を経験することになった。

最終日の前日、私は疲れがピークになっていたせいか、まったく眠れなかった。翌日は、午前中に試合があるだけだと聞いて、どうにか乗り越えられそうな安心感を抱いた。まず一年生のトーナメントがあり、その優勝者が二年生のトーナメントに出られる仕組みになっていた。私はどうしても優勝したかった。私の人生で、あれほど勝ちたいと思ったことはなかった。対戦相手を一人ひとり投げ飛ばしているイメージが次々と浮かんできて、心が躍り、朝までまんじりともしなかった。

一年生のトーナメントは、予想通りすべて一本勝ちで優勝することができた。望みどおり、一年生七人の代表として、二年生のトーナメントに入ることができた。一回戦はシードにより不戦勝、二回戦は一本勝ち、三回戦は引き分けだったが、一年生ということで勝たしてもらい、とうとう決勝戦まで進んだ。

相手は、朝倉先輩で、二年生の中で唯一の二段だった。体は私より小さかったが、動きが早く、足払いと体落としにはすばらしい切れがあった。朝倉さんは絶好調で、これまで三人をすべて一本勝ちであがってきた。少しでも長引いたらまけるに決まっている。彼より先に技を出そうとだけ考えていた。「始め」の合図と同時に、彼の動きだした方向に自分に足の裏を彼のひざの上に軽く当てて、左手を強く引いた。朝倉さんの体がふわりと浮いたのを感じ、きれいに膝車が決まったのだ。初心者が最初に教えられる技で練習でも一度も決まったことのない技だった。無意識のうちに自然に体が動いたのだ。十回やっても勝てないと思っていた相手だったので、投げた自分が信じられなかった。

「一本」という審判の声が上がると、一年生全員が大喜びで私の周りに集まって、胴上げをした。天井が目の前に迫るのを見ながら、人生最高の喜びを味わっていた。

その後に行われた団体戦では、私は一方の大将祭り上げられた。朝倉さんは相手方に入っており、先方だった。彼の目の色が変わり、まるで阿修羅のごとく一本勝ちを続け、九人をあっという間に投げとばした。大将の私も彼の迫力に圧倒されてすくみあがり、気がついたら畳のうえにたたきつけられていた。彼は、全員抜きを果たしたにもかかわらず、にこりともせず、怒ったような顔をしていた。一年生に負けた自分が許せなかったのだろう。だが、私にとっては、高校に入学してから初めての敗戦だった。

今思うと、試合の前日に一睡もできないほど、どうして勝ちたいと思ったのだろうか。奴隷が天皇に勝てるたった一つのチャンスを生かしたいという正義感のようなものがどこかにあったような気がする。

合宿終わって、二学期が始まると、先輩たちの一年生の教室めぐりが始まった。「岡根美枝子はどれだ」と十人以上の先輩がぞろぞろ教室に入ってきた。私は真っ赤になりながら、彼女を指差した。それからの私は、授業中でも電車の中でもいつもじっと彼女を見つめていた。その後八年間、毎日寝床の中で彼女のことを考え続けた。結婚を申し込んだがだめだった。あれから四十年もたった。今では柔道と初恋に明け暮れたあのころの自分がいじらしく思える。

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