鬱らしき方から「いいね」をもらったので、
その方の最新記事を読んでみた。
なぜかはわからないそうだけど、
岡本太郎の
【自分の中に毒を持て】
を読み始めたそうだ。
懐かしい
もう20年前になるが、
30歳で石垣島に一人
移住した時に読んだ。
昼間は創作活動をしながら
夜は水商売をしていたので、
その時のお客さんで
石垣市役所の職員だった
地元のお兄さんから
これまたなぜかわからなかったけど、
かなり強く勧められたからだ。
もしかして、
わたしのことを
岡本太郎みたいだって
感じたの?
とも思えるし、
遠い記憶を辿ると確か
太郎が沖縄の離島独自の伝統文化、
特に秘祭や奇祭を目の当たりにして
衝撃を受けたような話があったので、
市の職員としては、
そこをアピールしたかっただけかもしれない。(←いや、絶対そう)
でも、
神様?が家々を訪ねて来る来訪神を見たくて
民家の庭にお邪魔させていただいた時、
黙って静かに見学しなくてはならないと市職員らから散々ルール説明を受けていたのに、
いざ神様(それも2人も!)が現れたら、
その見た目と様子や雰囲気があまりにも異様で恐しすぎて、(←幻想的で荘厳だったと言わんかーい)
そこはやはり、
幼い頃から
着ぐるみのキャラクターが
親しみを込めて手を振りながら
突然こちらに近寄って来ただけでも
喰われるか殺されると勘違いし
絶叫していたASDとしては、(←最近診断されて知ったばっかりだよね)
ギャーギャー
騒がずにはいられなかったわけで、
すぐさま
神様らから直接だったか地元島民らからか、
キッと睨まれ、
体を棒で突かれたり
頭に殴りかかられたりしたので、
太郎が受けた衝撃どころではなかった。
トラウマである
でもあの本の中には、
今でも深く印象に残っている話がある。
(って今から本題に入るんかーい)
なぜなら、
自分と似ているかも、
と驚いたからだ。
たとえば、
スキーの話。
生きていることを実感するためにだったか、
命の危険を顧みず、
初めてスキー板を履いた時から、
直滑降で一気に滑り降りたとかなんとか。
わたしも中学生の頃から
自転車で急な坂道を下る時は
ブレーキをかけないで一気に下るし、
スケボーでそれをやってた時は
前から大きなトラックが来て
止まらずに避けようと
道路の端っこに寄ったら
電柱にぶつかって骨折したので、
太郎のことを
「コイツ、やべーな」
というより、
「コイツ、同じだな」
と親近感が湧いた。
そして、
太郎先生の大事な
芸術のお話。
太郎先生の作品は
よく人から気味悪がられるらしく、
それが気に食わないようだった。
とにかく芸術とは、
人間の深い所だったか
真実だったかを
表現するだったか
そんな感じだから、
醜さか何だったかを持つ
人間が見た時には
目を伏せたくなるほど
気味悪くなるのが
当然の反応であり、
人気がなくても
それでいいんだ、
自分の作品がおかしいわけじゃない、
むしろ自分こそは
人間の真に迫った芸術家なのである
と自己の正当性を主張したそうだったのが
人間らしくてますます親近感が湧いたので
忘れられない
岡本太郎、
生き様が好きだ
最近、
わたしの絵も
気味悪がられた。
抗鬱薬が効きすぎて
最近躁状態だった時に、
何を思ったか突然
20年ぶりに
自分でキャンバスを張って
油絵を描いた。
久々でうまく張れなかったが、
油絵はあっという間にほぼ完成↓

小学生の娘が
突然部屋の中に現れた絵を見て一言、
「こわいんですけど。」
おかしいな(←太郎先生のお話をもう一度読め!)
わたしはただ、
自分はもう死んでもいいから、
この体の栄養を
地球上の生命たちのために
木の根に吸わせてあげている
母性愛溢れる
少し腹の出てきて
二の腕も太くなったけど
慈愛に満ちた中年女性を
描いたつもりだったのに、
マザー・テレサか木の根の女か
って勢いで描き上げたのに、
感動しないの(←もう一度読め!)
キミはまだ、
芸術をわかってないな
でもわたしも、
部屋に入る度こわい(←こわいんかーい
)
自分でも自分の絵が
なぜこうなってしまうのかわからないけど、
太郎ならきっと、
わかってくれるはず
ところで、
太郎の言う「毒」
って何だったっけ(←一番肝心な所を忘れたんかーい、いい加減にせぇ
)