なるほど京都1015ー蛤御門の由来と禁門の変とは? | hiroyukikokaのブログ

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蛤御門は御所の門で当初は新在家御門と呼ばれていましたが、

天明の大火の時に普段は閉鎖されているのが避難のため開かれたので蛤が火にあぶられてからを開くのに擬えて付けられました、

御所は決して侵してはならない神域で「禁裏(きんり)」と呼ばれ、其の出入口の門は「禁門(きんもん)」と言われていました

幕末の最大の京での戦いを「禁門の変」と言うのは、この蛤御門の周辺で戦闘が行なわれたのです、「尊王攘夷」外国を退け、天皇中心の国体を願う長州藩は、「公武合体」皇室と徳川幕府の協調体制に反発して、京の街で様々な画策をしますが、孝明天皇の

徳川幕府との協調体制に反発して、御所に直訴したのが禁門の変です、きっかけは、新撰組による池田屋の長州藩士の捕縛です、

この時、長州藩は京の焼き討ちを画策していましたが、皮肉にも

禁門の変で実現することになったのです、御所の鷹司邸からの出火と河原町御池の長州藩邸の自らの放火で京都市街の中心街は応仁の乱以来400年ぶりに大火災で焼失します、又、嵯峨野の天竜寺を宿舎にしていた長州藩の追討に向かった薩摩軍の砲火で天竜寺もほぼ全焼しました、京の最後の破壊者は奇しくも、長州藩と薩摩藩だったのです、

ともに関ヶ原で破れた西軍の藩で487年ぶりにリベンジしたのです、破壊された京は首都にはなりませんでした、長州も薩摩も京には良い思い出が無かったのかも知れません。京には徳川の名残も薩長の名残もありません、唯一秀吉の名残はあります、天皇も秀吉が好きだったのです。