平和について、少年少女が考えるきっかけになるためのブログ「論考空間」

平和について、少年少女が考えるきっかけになるためのブログ「論考空間」

「平和」の重要性は日常生活の中にあり、それを中高生に考えてもらうことを目的に、近代の歴史からテレビでのスキャンダルまで幅広く取り上げます。
(「エヴァ」など、全く関係ないこともテーマにすると思います。)

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24日のロシアによるウクライナ侵攻の時は、数時間で陥落との予測もあったが、すでに27日になり、ウクライナの善戦が報じられている。


『プーチン高笑い』(24日)
ゲンダイの一面ほどひどくはないものの、多くのメディアが、あたかもプーチンは十分な戦略によって、彼の思い描くように世界を動かすかのように報道した。
トランプがプーチンを天才と言ったのを、批判を加えずにそのまま報道したのも、プーチンを利する報道だろう。


このまずさに、報道は気がつかなかったのだろうか?
さすがに、その後、軌道修正した。(よくわからない修正だったが。)

プーチンの戦略や国際情勢について分析した解説や研究者のコメントには、一定の真実はあろう。

しかし、スポーツ界の対ロシアボイコットやロシア本国を含めた世界中の反戦デモを予想したものは果たしてあっただろうか?
こうした世界的な行動に、プーチンは手を出すことができず、これによって、仮にウクライナを軍事的に攻略したとしてもロシアが極めて難しい戦後追い込まれることが確実になった。

おそらく、西側諸国の政府すら、これほどの反戦運動を予想していなかったのではないかと思われる。

今日7時のNHKニュースでは、世界中のあらゆる反戦行動をひとつも報道しなかった。

Yahoo!トップで出た
『ハリコフでロシア軍撃退とウクライナ表明 2249 コメント2249件 2/27(日) 20:22 』
この記事も、なぜか次に見たら消えていた。

一連の報道から、私は「民主主義はうまくいかない」と思わせたいというメッセージを感じ取った。

メディアが権力にすり寄るものだとよくわかった。

戦闘の激しさも、おそらく想定を超えたものであった可能性ある。
橋を爆破するために、自爆した兵士が報道された。その兵士に限らず、ウクライナ、ロシアの兵士や民間人の死について語れるものではないが、戦争についての歴史を知らずして考えることもできないだろう。

少年少女たちは、この事実を知るとよい。
平和や正義を正しく語れる人が、真実を語り得るのだと言うことを。

早く停戦を。

 ずいぶん間を空けてしまった。

 

この作品の主役が碇シンジであることは、あまり異論はないかと思うが、準主役となると、レイ、アスカ、ミサトのうち誰かに絞られるが、1人を選ぶとなると意見が割れるような気がする。

愛が成就するという意味で「ヒロイン」ということであればアスカになり、「恋愛」の観点ではミサトはシンジに拒否されているので、3人のうち3番手になるが、ストーリー全体への影響力でいれば、準主役に当たるのではないだろうか。
サブストーリーにはなるが、特に、ミサトは大人の側の主役とも思える。

第弐拾壱話『ネルフ、誕生』では、第2東京大学時代の学生時代が描かれている。
遠くない将来に死が待つミサト、加持、リツコの3ショットは、何となく胸を打つ。



 

ちなみに、ミサトは大学在学中にドイツに留学し、卒業後「ゲヒルン」(NERVの前身)に入社している。その後、ゲヒルンは発展的に解消され、NERVができるが、ミサトやリツコは引き続き在籍する。

ミサトは、軍の階級(物語中に一尉から三佐に昇級)を持っている。日向マコト、マヤなども射撃訓練の経験を話していた(第25話)から、NERVの職員は基本的に軍事訓練を受けていると思われるが、それにしても、若くしてエヴァの戦術を任されるミサトの軍事的な地位は異様に見える。

どこかで何らかの作戦計画に関わって功績を上げるなどしていないと、その地位につけないのではないかと思われるが、そのあたりは描かれていない。


第2東京大学卒業後はゲヒルン→NERVなので、そのような軍歴があるようには見えない。


一方で、「みんな人を殺すことに、慣れていないもの」(25話)の発言にも、何らかの経験や達観が感じられる。戦略自衛隊の兵士を圧倒する武術と殺すことのためらいのなさ、からもそれは感じられる。


もしかしたら、ミサトもまた、人類補完計画に関わるために子どもの頃から才能(および過去)を見出された、ある意味でのチルドレンで、訓練や経験を積んでいたのかもしれない。

(または、庵野監督がそのあたりにあまりこだわらずに人物設定したか。)

人類補完計画の真相を求めるミサトと加持は、それぞれの立場で真相に迫り、それぞれの方法でシンジにも向き合う。

ミサトの愛は、おそらく一貫して加持に向けられており、何だかんだ言っても、加持の側も、ミサトへの愛は一貫していたのではないだろうか。
その意味で2人は夫婦ですらあったと言える。

ラブホテルにおけるセックスシーン(当時、この場面が問題になったという話もある)において、「8年ぶりのプレゼント」であるチップを渡す。「最後かもしれないがな。」

加持の件で、ミサトに捜査が及ぶ。最終的に捜査官によって暗殺されている。(このあたりの加持の行動はあまり語られておらず、あらゆる点で謎である。冬月誘拐が直接の原因ではあるようだが、背景にチップの中にある情報の取得があったと思われる。)


チップの先にある真実へ手を伸ばすることに、ミサトは迷う。
 

第弐拾弐話『せめて、人間らしく』、ミサトには、ターミナル・ドグマにいるのがアダムではなくリリスであり、使徒が来てもサードインパクトは起きないことは知らされていない。

ミサト「ウソ,欺瞞なのね。セカンドインパクトはシトの接触が原因ではないのね。」「サード・インパクトは起きない、というわけね、そんなことでは」(第弐拾弐話)

司令官である自分に情報が与えられていないことから、真相はより深く、人類を守るためでない別の目的で隠されていることを察したと思われる。

ミサトもまた、命を賭けて調べることを決意する。エヴァの秘密を探りだし、ばれることなく戦略自衛隊の突入を迎えることになる。

真相を知ったミサトにとって、「命をかけて守るべき人を守ること」を軍人としての使命と思ったかもしれない。

精神崩壊しているアスカをエヴァ弐号機に乗せる、また、シンジを自ら救出に向かう判断は良かったが、ベークライト注入は、戦略自衛隊の侵入を遅らせる効果があったかどうかは描かれていないが、初号機の格納庫に流入して固体化することで、結果的に初号機の発進を遅らせ、弍号機の援護ができないまま、弍号機は量産型に敗北する。
弍号機を救える可能性があったとすれば、初号機による救出以外にはあり得なかった。


NERVのメンバーの安全は、投降すれば確保されると思っていた。
実際は、戦略自衛隊は投降など関係なく容赦なく殺戮を繰り返した。

ネルフが人間に襲われるという想定外の状況、次々と侵攻を許し、仲間の死に震えながら、即座の判断を下していく難しさと苦悩、そして結果が、戦争、特に「殲滅戦」のリアルを描いている。
庵野監督は、むつかしい状況の中で一定の間違いを犯すことのある人間としてのミサトを強調しているような気がする。

加持から命と引き換えに受け取った真実をシンジに伝え、シンジを守る役目を果たして、死神、レイのもとで絶命する。

シンジをエヴァへ送り出した後、

「加持くん……。あたし、これで良かったわよね?」


ミサトは「神の子」シンジを守る使徒だった。だから、第26話のラストに、ミサトの十字架が打ち付けられた場面があったのだと思われる。

後になってみれば、この3人の命のリレーは、絶妙な展開なのだが、テレビ版では、話が途切れて、あまりクローズアップされていないように思える。
チップの入手方法やチップの持つ意味などがもう少し描かれていれば、ストーリーに更なる深みを持たせることができたかもしれない。

(続劇)

 

ノーベル物理学賞受賞おめでとうございます!

 

 

そもそも、日本人で、現在の温暖化シミュレーションの先駆者がいたことを知らなかっただろうし、温暖化の科学で「物理学賞」を取ったということを意外に感じた人が多かったのではないか。

 

温暖化の科学では、「地球のエネルギー収支」というのがあり、太陽光、大気、地球表面の間で、エネルギーの授受が研究されていて、2013年に発表された、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)第5次評価報告書では、以下のような図で描かれている。(以下の図は、日本で発表されている「政策決定者向け要約」には載っておらず、評価報告書の全文(full report)に載っている)

 

 

この収支が二酸化炭素の増加に変わることによって、温暖化が起こることを研究する「放射対流平衡」と呼ばれるの基本的なモデルを作ったのが真鍋氏だ。

このモデルによって、二酸化炭素が2倍になった場合の気温上昇(「気候感度」と呼ばれる)を2~3℃程度と予測していた。これは、現在、IPCC(国連・気候変動に関する政府間パネル)第6次評価報告書の2~4.5℃とする予測とおよそ一致している。

 

真鍋氏は、アメリカのプリンストン大学で活躍し、基本的に、アメリカでの生活であったようである。

その研究が発表されたのは1980年ごろであり、日本では現在、あまり知られていない。Wikipediaで調べたことはあったが、健在であることを知って、正直、驚いている。(失礼か?)

 

真鍋氏の研究によって、多くの気候学者が、温暖化が起こることの確信を持ったといわれる。

 

今年の8月に第6次評価報告書の中で、「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない。大気、海洋、雪氷圏及び生物圏において、広範囲かつ急速な変化が現れている。」としているが、温暖化懐疑論(否定論)の方々がまだいる。しかも、その論点の多くが、40~50年前に決着がついているものだ。

 

岸田新総理は、IPCC評価報告書(日本政府は原理上、この内容に合意していることになっている)にもかかわらず、温暖化の人間による影響を「科学的検証が必要」とか言ったらしい。

 

日本の脱炭素への取り組みは、世界に対して周回遅れがひどいな。

 

 

五輪が終わって、予想通りというべきか、五輪選手の活躍は忘れ去られ、報道がコロナと豪雨災害一色になっている。五輪は実施すべきではなかった。

東京五輪直前の「小山田圭吾氏いじめ辞任」には驚かされた。いじめの内容には、あまりのひどさに驚いたし、それ以上に、そのことを堂々と語ったという事実にも驚いた。

少し前に、韓国のバレーボール女子代表選手の姉妹が中学時代にチームメートへのいじめ(これもひどいが、小山田氏ほどではない)が暴露されて、選手生命が奪われたという県が起こっていて、当時から、今後、日本でも似たような事例が発生する可能性があるとする予測がされており、それが、東京五輪の直前に表れることとなった。
 

 


小山田氏の問題について、最近、私が少しだけハマっているTwitterを見ている限り、圧倒的に「辞任」または五輪組織委員会による「解任」を要求する内容が多かったが、それなりに「辞任」「解任」に反対の立場もあった。

小山田氏の親戚のアーティストが辞任を喜ぶツイートに反感の意を示して炎上し、また謝罪などということも起きた。

言葉こそ違え、反論の根底にあるのは、小中高生時代の過ちは一生許されないのか?という疑問だと思われる。(書いた人の中には、たぶん、過去にいじめの経験があった人が一定数いると思われる。)

さらに直前に起こったのが、五輪開会式ディレクターの小林賢太郎氏「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」である。こちらは、国際政治問題の性質も帯びているためか、即刻、解任となった。

今後、似たようなことが起こることがあり得るし、こうしたことについてはきちんとした論考をしておかなければ、同じようなトラブルが起こったうえに、整理されない不満が残るような気がする。

最初に誤解がないように言っておくと、今回の「辞任」は当然という立場である。

私自身は、この人物を知らず、音楽性など知りはしないが、一方で、この人が一生、同じ件で責められ続けることは妥当だとは考えていない。

小山田氏の発言の一つに、1995年8月「クイック・ジャパン」「いじめ紀行 第1回」以降、何回かに分けて掲載された『いじめ紀行 第1回』なる記事が存在した。

私は、もともと小山田氏の発言は、音楽関係のインタビューの文脈の中で、簡単なエピソードとして書かれていたものと思っていた。実際、そのような記事もあったようだが、それとは別に「いじめ」を主題とした記事があったことに少し驚いた。こんな記事をつくるんだ、という驚きである。

私はこのように考えた。この事態を論考するには、以下の2つを分けて考えるべきだと。

 1.「いじめ」「差別」を商業利用した表現者をどう取り扱うか。
2.小中高時代に、いじめをした事実をどのように解釈するか。

 このことについて書きたいと思っていながら、自分自身の理解が不十分で、事態をうまく整理できずにいたが、ある記事が私の混乱を払しょくしてくれた。


 「「小山田圭吾」がオリンピックに相応しくない最大の理由 「メディア営利」の軌跡が示す適性/不適性 2021.7.22(木)伊東 乾」


(以下、引用)

これらを「売り物」に雑誌に記事を掲載、営業していたことこそが、今回の五輪音楽任用で最大の問題なのです。
(中略)
「面白いことを考えて他の人間にやらせ」それで少なくない報酬も得るというビジネスでもあります。
 こうした場で、このような過去の営利事実があると、少なくとも欧州の倫理基準では不適格と判断される公算が高い。
 さて、日本は面白い国で、五輪の公式スポークスマンは「高い倫理観を持って創作活動するクリエーターと考えて」留任を強調したのだそうです。
(引用終わり)

ここでは、小山田氏のいじめの“事実”については問題にしていない。本人の発言のみで被害者への確認もされておらず、本人も「事実と異なることもある」とは言っているので、安易な事実認定には注意をしなければならない。私のおよその理解としては、問題はそこではなく、いじめを題材にして商業活動を行った経緯があること自体、それが欧州の基準では表現者として不適格である、そして、それは本人が表現活動をする上ではずっとつきまとう、ということである。

そのあとに問題になった「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の件についても、主に1について考える(実際には、2も考えるべきである)と、小山田氏も小林氏も表現者として不適格ということになり、今後、ずっとこの立場から逃れられないことになる。
 

しかし、これはあくまで欧米の考えであり、現状の日本に即座に当てはめるべきかという議論もできる。その作品の制作に関わった関係者や、当時の社会におけるメディア倫理について考慮する必要があり、単純に本人の問題とは言えない部分があるとも思う。このあたりを、次回、論じる。
 

私は、2の部分については、今回の件で、一区切りとするべきだと考える。小山田氏を責め続けて終わる問題でもないと思うからである。

小山田氏は、記事掲載と今回の謝罪によって上記の「事実の告白」はしていることになる。(実際にどうだったかは確かめる必要があるが。)

小山田氏は、この件を何度かファンクラブのSNS関係で「炎上」したらしく、今回の問題発覚前の段階でも、ネットで調べれば、すぐにわかることだったらしい。
小山田氏は、その後、あらゆる表現活動を中止に追い込まれている。現状で、一定の「社会的な制裁」にあっていたと考えることもできる。

これ以降、彼がどうやって生きていくかは、本人の問題ではないだろうか?

外部の人間として、変な報復感情は持たないことだと思う。
 

東京五輪は、日本社会が、太平洋戦争からあまり進歩していないことを世界に知らしめる結果となった。

戦前、あらゆる国の政権が利用したのが公共事業で、これによって雇用を生み出すことで、支持を維持することができた。採算度外視でこれを最大限に利用したのが、ヒトラー率いるナチスドイツだった。

東京五輪は、事実上、これまでの利権を失った政権が、企業からの支持を維持する日本に残された数少ない公共事業であった。
衆院の過半数を失った自由民主党には、党是である「憲法改正」を実現するならば、五輪の熱狂を利用することが唯一のチャンスと考えたのだと思われる。(どうも、あまりうまくいかなかったらしい。)

実際、安倍政権はあらゆるインチキを行って招致に成功した。

「アンダーコントロール」(福島第一原発の汚染水、海洋放出の方針に多くの批判がある)
「温暖で晴れの日が多い東京の夏は、アスリートが最高のパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」(海外選手の膨大な批判により明白)
 

東京オリンピック(五輪)・パラリンピック招致をめぐる贈賄疑惑でフランス司法当局の捜査を受けている竹田恒和・元招致委員会理事長は、今だ、捜査の対象になっている。

五輪に強い方向性を持つ政権に、日本の大企業は乗るしかなかったのだと思われる。最終的に、こうした五輪の現状にノーを態度で表明したのはトヨタ自動車だけだった。

この政権が、「平和の祭典」という趣旨を建前としか考えていなかったことは、五輪準備におけるありとあらゆるトラブルから容易に読み取ることができる。

こうした方向性に違和感を持った人は一定数いたが、それは、それほど多数派にはならなかった。

こうした日本の問題をあぶり出すことになったのが、「コロナ問題」だった。

感染症を知る専門家からすれば、コロナ禍によって、世界中から人を集める五輪の開催は2年は厳しいと考えることは、常識に属していた。
しかし、安倍首相にとって、「憲法改正」を自分の手で実施するためには、予定通り「完全な形」の実施をするために、1年延期で実施するほかはなかった。

しかし、安倍政権はコロナ対策に失敗し、本人の病気によって退陣、菅政権が誕生する。

菅政権は、緊急事態宣言を連発したが、感染拡大を抑えることができないのに1年延期で五輪の開催を強行した。

尾身会長が「実施は普通はない」といっても、それにまともには向き合わない。
そもそもが五輪の政治利用であり、政権や五輪関係者が科学的な見解を聞き入れることはなかった。

大会参加を辞退した国、選手はそれほど多くなかったのも事実だ。

だから、五輪開催強行の方針は、自民党の政治的左派との闘争の様相を呈し、科学を無視した自己正当化のために、五輪関係者は歯の浮いたような発言を繰り返す。
「(五輪は)分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある。新たな光を見いだすきっかけになる」(丸川五輪大臣、5月11日、記者会見)


こうした発言が一定の人に与えたストレスは、おそらく、競技中の反対デモ、開会式関係者へのあら探しへとつながった。「開会式直前 小山田氏、小林氏の解任問題」は、そのひとつである。

これから、感染爆発や膨大な負債の問題が、メディアを駆け巡ると思われる。

分断は、片方しか見えないイマジネーションの弱さに端を発し、差別的行動として表れる。

五輪中に五輪開催を反対していたテレビが選手を称賛したら「手のひら返し」というが、開催中に五輪を露骨に批判すれば、それは選手への批判につながることになるので、避けるのは妥当だったと考える。


選手の活躍に感動したならば、それは、それがテレビで見えているからだ。
選手の映像を見ながら、緊急事態宣言によって活躍の場(場合によっては仕事)を奪われた人の姿をイメージすることが重要だ。
 

「運動会は中止なのに五輪はやるの?」
子供の単純な問いに、大人は答えられない。

大人の論理が子供の論理にかなわない。これが、戦後日本社会の到達点である。
 

その視点から、五輪とパラの終了後に、政府や五輪関係者の行動と発言を検証する必要がある。

それでしか、この五輪からは得るものはない。