肥後の石工「岩永三五郎」が鹿児島薩摩藩に招かれ、甲突川の五大石橋に代表される芸術的且つ機能的な眼鏡橋を手がけた後、肥後に帰る途中最後に架橋したのがこの江之口橋と云われています。
薩摩川内市高江町を流れる八間川に架けられた橋長17.3m、幅員3.4m
径間7.5mの石造二連アーチ橋です。
1849年に架橋され、160年余り経っているのに、現在も生活道路として
使用されています。
現在は、文化財として大切に保存されています。
正面の堤防の向こうは、川内川です。
川内川は、熊本県白髪岳から宮崎県えびの市を経て、東シナ海に そそぎ込む
延長137kmの筑後川に次ぐ九州第二の延長を誇る大河です。
八間川(はっけんがわ)は、薩摩藩が作った人口の川です。
山間部が迫る高江の大水田地帯では、大雨の時大量の山水が流れ込み、大水が
水田を何日も浸水させ、農家は被害に長年苦しんでいました。
低水地に流れ込んでいた二つの川の水のほとんどを八間川に流れるように
したのです。バイパスの河川として造られたのが、八間川です。
このため、田畑が冠水することはなくなりました。
当時、中心地であったこの地に架橋されたのがこの江之口橋なのです。
この日は、水量が少なかったため、眼鏡橋とまではいきませんでした。
八間川の名は、川幅を8間(14.5m)にしたことからきています。
この石積みの技は、力学的な構造で組んであります。
1個1個の石の形と大きさは、計算されているとは驚きです。
一説には、眼鏡橋には要の石があって、戦が始まった時、敵の侵入を防ぐ手段として
橋を壊すとき、その要の石を1個外すだけで橋は崩壊すると言われています。
橋には、「2t以上の車は通れません」の注意書きがありました。
架橋から165年経った今日まで、崩れずに生活道路として使用されていることに
驚かずにはいられませんでした。
文頭に書いた岩永三五郎が手がけた甲突川の五大石橋は、
鹿児島市の石橋記念公園に移設されています。