1.薩摩街道
江戸時代,鹿児島から福岡までの陸路では,「出水筋」「大口筋・加久藤筋」「高岡(日向)筋」が代表的な街道で,薩摩藩主の参勤交代の道でもあったそうです。
NHK大河ドラマで有名な天璋院「篤姫」もドラマでは海路を使用したが,実際は出水筋(薩摩藩鶴丸城→肥後藩熊本城へ)をルートとして江戸へ向かいました。
< 薩摩街道の三大関所・・・野間関・小河内関・去川関 >
< 宮崎市から都城へ向かう国道10号線沿いに高岡のはずれに
この案内板があります。>
< この道を進んだ「大イチョウ」の脇に薩摩街道があります。>
< 薩摩街道の説明版・・・参勤交代や幕末には勤王の武士,明治には
西郷隆盛を慕う若武者が走り抜けたとあります。>
< 薩摩街道(高岡側を望む)・・・ 右が大イチョウ >
< 薩摩街道 >
2.国指定天然記念物「去川の大イチョウ」
< 都城から宮崎へ向かう国道10号線沿いの案内板 ・・・ 宮崎からは左右が逆>
< 太い枝がないのが特徴だそうです。 >
< 800年の風雪に耐えた証が見られます。 >
3.県指定史跡「去川の関」跡
第16代、島津義久公が天正年間の中頃(1580年)、国境の防備を固める ため関所を去川に設け,厳しい取り調べを行った。
(1) 去川の地名の由来
① 大淀川を宮崎では赤江川(あかえがわ)と呼んでいたが,高岡郷では
「左流川(さるかわ)」と呼んでいた。
② 薩摩街道(さつまかいどう)は、ここで大淀川から離れて(去って)山道
に入るので、去川となったという説と
関所から見て、大淀川が左を流れているから左流川(さるかわ)と
いったも言われている。
(2) 当時は去川小学校のそばに渡船場があって,旅人は渡し船で関所に
たどりつき,薩摩街道を旅していました。
< 門柱に使用した礎石が残っているだけです。 >
< 関所見取図 >
< 去川の関跡・渡船場もあったようです。 後方は大淀川 >
(3) 去川関・・・歴史の悲喜こもごもが往来した地
江戸時代、去川関には忌まわしい 噂 〔 うわさ 〕 もあった。
「東目送り」とか「永送 〔ながおくり〕(長送りとも)」といわれるのが
それである。
藩外人の罪科が死刑相当のとき,「永送り」を命じられ,去川関から
藩外への追放を申し渡すことになっていた。
もっともこれは建前で,実際は高岡郷の郷士たちが去川関で斬り
捨てたという(「鹿児島県史」)。
それで有名な話が幕末の僧月照のことです。
安政の大獄を逃れて、西郷吉之助(西郷隆盛)ともに薩摩に亡命して
きた月照だったが,藩当局は江戸幕府を恐れ,
月照に東目送り=永送りの処分を下し,日向法華嶽寺(現宮崎県
東諸県郡国富町)に隠れるよう指示したという。
< 現在の宮崎県東諸県郡国富町の法華嶽薬師寺 H25.5 画像挿入 >
そして,藩は親しい西郷に日向(=永送り=切り捨て)まで送っていく
よう命じた。
当時薩摩では、日向(宮崎)へ送ることを「永送り」と言って、国境で
斬り捨てる習わしだった。
西郷は永送りの意味を知っていたので,月照へのすまなさと
藩への怒りが海に身を投じるという道を選ばせ,月照とともに
錦江湾に身投げをしたという。
(月照辞世の句)
大君の ためにはなにか 惜しからむ
薩摩の瀬戸に 身は沈むとも
ここは西郷が月照とともに冬の海に身を投じた鹿児島市の桜島を望む
錦江湾の近くにあり、発見された二人は、この藁葺きの家で介抱されま
したが、西郷隆盛のみが蘇生(享年46歳)し、月照は助かりません
でした。
すぐ左手は「錦江湾」です。線路は日豊本線
すぐ左手は「錦江湾」です。線路は日豊本線
< 西郷隆盛蘇生の家 >
< 渡船場が門前にあった去川小学校・・・2009年3月に閉校となった。>