幼少の頃、次の日に出掛ける予定があると出発の時間が待ち遠しくて仕方がありませんでした。そんな時間を僕はよく時計を眺めて過ごしたものです。時間をかけてゆっくり回る秒針を眺めてはそのノロノロした態度を憂えていました。
そんな事にも飽きると決まって「早く眠くならないかな?」と考えます。寝ると時間が一瞬で進むからです。目を閉じ意識が遠のくと、次の瞬間には時計の短針はぐるりと回り反対側を指しています。僕は睡眠を一瞬で目的の時間へ導くタイムマシーンに乗る事の様に捉えていました。
しかし年齢を重ねると、この一瞬に違和感を持ち始めます。確かにそれは一瞬です。しかし軽度ながら疲労感をもたらすほど長い時間にも感じられる様になるのです。一度覚えた違和感は増長し、それは永遠を思われるほどに長い時間のように感じるようになりました。まるで朝目が覚める度に冬眠から目を覚ます動物にでもなった気分です。
勿論時計がありましたし家族もいましたから周囲の状況から考えて、睡眠時間は精々10時間程度だという事は知っています。しかしその頃の僕は自分の主観こそが最も信頼できるものとして、それ以外の情報を素直に受け入れる事ができませんでした。
一瞬であり永遠でもある時間、そんな時間に僕の心はどんどん惹かれていきます。
そんな僕の姿を見て両親は随分困り果てていたようです。実際僕が目に見えてしている事といったら布団に入り眠くなるのを待つだけです。「何か興味がある事はないのか?」と聞かれた事をよく覚えています。両親は知らずとも僕は永遠にとても興味を示していたのですが、それを説明する事ができなかったあの頃の僕は、まるでこの世に興味がない子供に見えたそうです。
興味は更に深まり、いつしか僕が現実世界(起きている時間を)を生きるのは永遠(寝ている時間)を知る為になっていきました。そして更には生前、死後の世界の永遠にまで惹かれていき、それを知る為に生きるようになるのです。
一度芽生えた好奇心は止まる事を知りません。それこそ永遠に辿りつく事に憧れ、死をもってそこへ辿りつこうと真剣に考えたくらいです。
それはまるで人の生を軽視し、まるで現実世界を永遠を図るための物差しへと変えていくかのようでした。
しかしそんな現実軽視によって現実世界で生きる重要性に辿りついたのです。永遠に囚われ永遠を愛した僕が現実に興味を示し、初めて現実を重視させたのは他ならぬ永遠を知るためでした。
それからの僕は普通の子供と同じ様に起きている時間を楽しみ感じるようになり、そんな姿をみて両親も安堵したようです。
あれから時間が経って、永遠を知るために現実を生きるなんて事を僕はすっかり忘れていました。しかし今でも悩んだ時には自分に言いきかせています。この世界はまた1つの物差しに過ぎずそれだけで生きる意味を持つに十分なのだと。
君の意思を無視して長々と語ってすまない。
私の作品を是非君にも聞いて欲しかったんだ。私は彼のしていた様な天真爛漫な一人歩きがとても好きでね。
なんせ最近の人間は情報に敏感すぎる。真実と言う物は人間の想像の力を殺いでしまうのではないだろうか?もしあの空に浮かぶ雲は触れることすらできないものだと人類は誕生の瞬間から知っていたら、果たして天国や神なんてものを創造できたのだろうか?自由な子供を真実なんてもので縛りつけるからいつの時代も年老いた子供が閉塞感なんて物を味わうのだ。
やはり睡眠は永遠に繋がるべきであれば鏡の奥には不思議な世界が広がっているべきなのだと私は思う。
思いだしてほしい。照りつける日差しの下、アリの巣を穿り返していた時の探求を。強要される事がなければ賛同を求める事もないあの好奇心を。
私がいくら口を動かそうとも君の心を侵略することなどできないのだ。さあ君は君の赴くまま都合よく私の言葉を受け取りなさい。それも無意識ではなく意思持って捻じ曲げるのが望ましい。
いらない物から目を反らし、欲しい物を直視しよう。その先に何を見るかは君次第だ。君が見るのは今までと同じ風景だろうか?それとも違う世界だろうか?さあ私に聞かせてくれないか?
