奔放に生きた母だった。

 

第二次大戦後大阪に駐留していた米軍兵士と恋に落ち、結婚。

敗戦直後の日本で米兵との結婚は周りからの祝福は得難かったであろう。

 

それでも朝鮮戦争真っ只中の1951年に僕が産まれその2年後に弟も続いた。

 

当時、僕たち兄弟は世間から奇異なものを見る目に晒された。

「混血」「アイノコ」など幼い子供には辛過ぎる雑言が耳に飛び込んでくる時代だった。

 

そして僕が小学校に上がる前、母と2人の子供を置き去りに実父はアメリカに帰国。

 

ほどなく母は再婚し僕らは養父に育てられた。

大切に育てられた事への感謝の気持ちは当時から今に至るまで持ち続けている。

 

その後の僕はずっと「生さぬ仲」を公言される養父の気持ちを慮り続けた。

 

「ほんまに純粋の日本人なんですか?」などと問われ、顔の強張りを感じながらも自分の中にアメリカの血が流れている事だけは執拗に明らかにしなかった。

 

誰が見たって純粋の日本人であるには不自然すぎる顔つき。

そんな事は重々承知していてもこの1点だけは譲る事なく時を重ねた。

 

養父は1994年6月30日に旅立った。

が、その後も母の存命中に例えさざなみ程度であっても「波風」は無用と沈黙を続けた。

 

その母が亡くなり今日で4年。

機も熟したと今回は今まで問われるたびに頑なに秘していた出自を明らかにし気持ちを少し楽にさせてもらった。

 

きっと「誰が興味あるねん!」な事だろうが僕にとっては一大事以上の事であったと理解いただければうれしい。

 

生まれ育った環境。

辛かった事も山のようにある。

ただ、それ以上に得たものは大きかった。

 

「生まれ育ち」に関しては書きたいことは山のようにある。

が、それはまた機会があればという事に。

 

今はただ「面白い人生」を歩めた事に感謝しかない。