●愛する思いがあれば、血のつながりはどこかに行ってしまう。
今日は何を書こうかと、ニュースを見て見ると、
今、渋谷が明後日31日のハロウィーン当日に向けて、
路上飲み禁止や、ハチ公立ち入り禁止などの規制が始まっている。

なにしろ、ハロウィーンの悲劇と言えば、去年韓国ソウルの繁華街イテウォンで
29日の夜、大勢の人が折り重なるようにして倒れた事故で、
154人が死亡した事件が影響している。

それもあって、今年の渋谷は徹底してハロウィーン排除を行った様だ。
この渋谷の様子を見ていると、昔の自由だった渋谷を思い出すと同時に、
一人の女の子の事を思い出す。
これは、
人見知りで、泣き虫だった一人の女の子の物語である。
1986年2月21日、
福岡県福岡市に、一人の女の子が生まれる。
お母さんは、その子に愛と名付けたが、
そこには、愛の出産を見守る父親はいなかった。
父親は行方不明という事で、母親一人で愛を出産したのだが、
母は出産後体調を崩して、亡くなってしまう。
こうして愛には、父親がおらず、
母親も亡くなってしまった。
愛は生まれて半年で天涯孤独になり、すぐに乳児院に引き取られる。
2歳まで乳児院で育ち、2歳半くらいになると、
児童養護施設・和白青松園に移った。

この頃、愛がいつも思っていたのは、
「いつになったら、お家に帰れるのかな。」
そんな愛は、人見知りで、泣き虫になった。
愛が3歳になった時、
この児童養護施設に週に1度か2度訪問に来ていた夫婦が、
愛を気に入り、養子にしてくれた。
養子という制度などを知らない3歳の愛は、こう思った。
「この人たちが私のお父さんとお母さん」
「やっとお家で生活できるんだ」

ただ、養子として引き取られた直後の愛は、
慣れない家で、いつも泣いて、養父たちを困らせたという。
養母はそんな泣き虫で人見知りな愛の生活を改善させようと、
近くの音楽教室に通わせたという。
しかし、人見知りは治らなかった。
振り付けは完璧にできるのに、歌はうまく歌えなかった。
歌の最後の方だけ頑張って声が出るという程度。
それでも、母は「よくやったね。」とホメてくれるのが、すごく嬉しくて、
そんな母の期待におえたいという気持ちがどんどん強くなっていき、
小学校の低学年の時には、愛と母は「愛は歌手になる」を目標にしたという。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
愛が10歳の時、養父が肝臓がんで急死してしまう。
それまで一軒家に住んでいた母子は、家を追い出され、
小さな6畳一間のアパートに移り住んだ。
生活する為に、働きなれない養母が働きに出る。
そんな母を助けたいと思った愛は、13歳・中学2年生の時に、
演歌歌手としてデビューします。
しかし、まったく売れず、成功しませんでした。
ある日、母親に頼まれて金庫から書類を取って来た時、
ふと、自分の出生について書かれた書類を見つけてしまう。
私の名前の欄があり、母親という欄に、
別の人の名前がありました。
全身に衝撃が走りました。
その震える思いのまま母に、
「これは、どういうこと?」と訊くと、
母はとても悲しい表情をして、
「見てしまったか」という表情をして、
「これはね…」と、
私には生みの親がいるという話をし始めたのです。
しかし、母と亡くなった父が両親だと信じてきた私には、
その話はとても受け入れられませんでした。
それでも母は最後に、
「でもね、
愛はお母さんの本当の娘やけんね。」と、
きっぱり言ってくれました。
そのときは「でも……」という複雑な気持ちでしたが、
最後の言葉は私の強く心に残り、後になって、私の宝物になりました。
衝撃ではありましたが、徐々にこの事実を受け入れ、
「血のつながりはないかもしれんけど、
お母さんは私の中でたった一人。
やっぱり、この人が私の母親だ」
という気持ちになっていくことができました。
「愛はお母さんの本当の娘やけんね。」という母の言葉には、
お母さんの愛情が本当に伝わってきたんです。
後に、彼女は言う。
愛する思いがあれば、血のつながりはどこかに行ってしまう。
今思えば、母は、
引き取られてからすぐに私を音楽教室に通わせてくれました。
泣き虫で人見知りの激しい子だった私を「歌で心を開かせよう」と思って。
私が歌っている姿を、誰よりも喜んでくれたのが母でした。
「愛は歌手になるけんね」と、日々言われて育つうち、
「そうか、私は歌手になるんだ」という気持ちが自然に生まれてきたんです。
父が亡くなり、お金に苦労し始めても、
借金してまでも、音楽教室に通わせてくれたり、
高校も東京に行かせてくれたり。いろいろなものを犠牲にしてまで、
母は、母は、
「愛はお母さんの本当の娘やけんね。」と言ってくれたんです。
愛する思いがあれば、血のつながりはどこかに行ってしまう。
愛は高校生になると、母のお蔭もあり、歌手になる為に単身上京、
堀越高等学校の芸能コースへ入学します。
同級生には、山下智久、上戸彩、小池徹平、蒼井優さんなどがいて、
私の周りは、みんなオシャレで可愛くて、
「自分は何でこんな田舎者なんだろう」という劣等感で一杯でした。
最初は大手事務所のお世話になったのですが、なかなか売れず、
1年も経たないうち、事務所から、
「もう君をバックアップできない。」とクビを宣告されて見捨てられてしまいます。
もうダメだ。
私には、もう歌う所が無くなってしまった。
歌う場所が無くなって、孤独感と挫折感で一杯になり、
毎日泣き続けていました。
歌える場所が無いと嘆く日々。
福岡に帰りたい。
でも、母が働いてまでも私を応援してくれているのに・・・・帰れない。
私は崖っぷちに立たされているような思いでした。
そんなある冬の日、
渋谷を歩いていると、
ギターを片手に、たった一人で歌っている人がいたんです。
「初めてストリートライブを見て、
私もやってみよう。
路上で歌うことを最後の賭けにしようと思いました。」
16歳の誕生日を2日後に控えた2002年2月19日、
ラジカセとマイクを用意し、当時住んでいた場所から近かった
四ツ谷駅前の橋の上で初めて歌った。
「最初は本当に勇気が要りましたね。
すごく怖くて、
始めたころは歌い終わったら逃げ出すように帰る日々でした。
それでも、路上ライブを1000回やるって決めて、
それでダメだったら諦めよう。という思いで歌っていました。」

しかし、路上ライブを始めた直後の事でした。
ここまで唯一愛を応援してきてくれた母が亡くなったのです。
「訃報を電話で聞いたのですが、
本当に衝撃的でした。
あの瞬間は、なんで・・・という思いでした。」
歌手になる事を誰よりも応援して来てくれた母。
愛は二度目の天涯孤独になってしまいました。

路上ライブの場所を人通りの多い渋谷に移して歌っていたある日、
愛は運命的な出会いをする。
当時、大学生だった現在の事務所のスタッフと出会い、
「協力したい」と声を掛けられたのだ。
■オリジナルの曲を歌ってみてはどうだろうとアドバイスしてくれて、
■発電機やスピーカーなどの機材を揃えたり、
■CDを焼いてくれたり、
■看板づくりも大学生のみんなが手伝ってくれました。
初めてCDが売れたときは、まさか買ってもらえるとは思っていなくて、
とてつもなく大きな喜びでした。
東京に来て、初めて希望を感じた瞬間でした。
歌う場所が路上だけに大変なことも多かったという。
屋根がある所ではなかったので、
■雨が降りだしたら急いで片づけて、やんだらまた始めたり、
■警察の方に注意されて中断したりっていうことも多かったですね。
■酔っ払いの方にCDをいきなり落とされることもありました。
その後、3年かけて渋谷で路上ライブ1,000回を達成させた。




彼女は、「路上の天使」と呼ばれる様になった。

そんな愛さんに転機が訪れる。2002年の秋、
人気テレビ番組『あいのり』の主題歌として、
愛さんの曲が使われることになったのだ。
番組に新人アーティストの曲が選ばれたのは奇跡だった。
川嶋あいは、

2人組のユニット「I WiSH」(アイウィッシュ)として発表した
番組の主題歌『明日への扉』はオリコンチャート1位となり、
90万枚以上のセールスを記録する大ヒットとなった。
その後、毎年8月20日に「渋谷公会堂でワンマンライブ」行っている。
この8月20日こそ、応援してくれた愛する母が亡くなった日である。
この日は歌で亡き母と通じる日としている。
「母さん、あいは、歌手になったんですよ。」
END
参考:Sky-Journal https://sky-journal.com/kawasimaai-oitachi/9950/
日本財団 子どもたちに家庭をプロジェクト https://nf-kodomokatei.jp/interview/170412.html
日商 Assist Biz https://ab.jcci.or.jp/article/22604/



