ひとりで眠れない | いぬのクシャミとチーズの鼻歌

いぬのクシャミとチーズの鼻歌

だんなさんの転勤で、徳島県であらたな暮らしをスタート。
人生ではじめての田舎暮らしですが、どこにいても「善く食べることは善く生きること」、まいにちの小さな食卓を記録していきます。

夜、ひとりで眠ることができない。怖くて眠れないのだ。何が怖いかって、幽霊が恐いのだ。そんな私に、霊感はみじんもない。なので、何だかなあ、というマヌケ話である。まるで自分をトンビと勘違いして枝の先っぽでふらついている夢遊病の猿のよう。考えるだけで損な話である。そんな自分の浮かばれない特性をはっきり自覚するようになったのは、5~6年前だったか。

きっかけは、ひと夏の沖縄旅行。私は社会人5年目。一泊二日の弾丸旅行で、ひとりふらっと沖縄を訪れたのだ。ホテルは、中心より少し外れた小ぎれいな全国展開系のビジネルホテルだった。

ホテルの部屋に入ったときは、何の不安も感じなかった。チェーンホテルらしい、簡素な内装に清潔なタオルとベッド。どうせ寝るだけだもの、なんていっても、せっかくの一人旅。そこそこ快適に過ごしたいではないか。

しかし、夜になると。一日歩き回って部屋に戻り、シャワーも浴びたし明日も早いし、さあ寝よかーという段になったとき、にわかに気持ちがざわついた。嫌な予感がした。何だろう、何なのでしょう、この、不穏さ。ホテル特有の音のない音、あるいは無機質な空調音なのか、何かが私のスイッチを押してしまったのだろう。

ああ、いけない、そっちにいってはいけないと焦りつつ、わけのわからない恐怖感が、突如私の脳内で幅を利かせはじめたのだ。その勢いたるや、もう。現実的根拠は何もない。あるのは、何かいるんじゃないか、という妄想だけ。あえて名付けるなら、オカルト症候群(以下オカ症)とでもいおうか。もちろんオカ症の生みの親はほかでもない私なのだが、こうなると災害に見舞われた気分である。

こんなとき、掛け布団を頭からつま先までぴっちりまとうと、意外と精神が落ち着く。と思って、暑かったけれど、寸分の隙間もシャットダウンしながら布団に包まった。しかし、いくら武装しても、力強く目を閉じても、身体の奥底から、ぞわぞわとした嫌な感じがとくとくと湧き出てくるのだった。

もはや何が怖いのか、わからない。というか、何が怖いか分かったらたまったもんじゃない。そう思い、暴走するオカ症を、「なんか怖いなあ」以上の具体的な域にだけは踏みこませないよう、残量わずかになった理性を総動員して必死に塞き止める。そして、彼らの欲望をかき立てるいっさいの不気味な事象を取り除くべく、枕元のライトをほんのり点けたり、うっすら隙間を残していたバスルームの扉をぴちっと閉めてみたり、少しでも「おうおう、ここもか」と気になったポイントはすべて踏破した。そんなことしているうちに、ますます意識は冴え、そのあと朦朧となり、気づいたら朝のお日様と対面する始末だった。

以来、ひとりの夜は、オカ症にずっと悩まされている。現に、旦那が所用で不在だったこの二日間は、控えめにいっても相当きつかった。このオカ症、地味ではあるが、現実的になにかと不便なのだ。

そもそも病は気からというが、恐怖もまた、気からである。一方、「病」は、「身体」が元気を取り戻せば、「気」も連動して、互いに上昇気流にのることができる(少なくともそうなる希望は持てる)。しかし、これが「恐怖」となると、いかなるものか。「これ」を改善すれば「恐怖」もなくなりますよ、という「これ」に当たるものは、いるのだろうか?たとえば、お笑いネタはどうだろう?一人でも鼻の穴がふくらんでしまうようなお笑いネタなら、売るほどある。いや、しかし、「お笑い」と「恐怖」は、いわば「焼き肉」と「寿司」のような間柄。つまり、どちらも存在感抜群だが、決して互いに手を取り合ったりしない。焼肉をたらふく食べたところで、寿司への欲望をおさえることなんてできないのだ。なんだか胃もたれ起こしそうな例で恐縮ですが、ようするに「恐怖」を追っ払う何かって、何なのでしょうか。

ところで、テレビに出演する霊能者と言われる人たちは、そんなに霊を怖がっていないように見える。時には積極的に、時には「前世で親友だったんですか?」というくらい親密そうに交信?するツワモノもいる。いっそのこと、私も霊感を鍛えてはどうだろう?・・・いやー、ないですね、ないでしょう。ちなみに欧米では幽霊をゴーストと呼ぶらしい(当たり前ですね)。いっそ、私も「幽霊」でなく「ゴースト」と呼んでみようか。それで何か変わるんですかという感じだが。

そんな堂々巡りをしていたら、いつのまにか夜の七時。家の中もすっかり真っ暗に。怖いですね~。変なスイッチが入らないうちに、この話はおしまい。