人は、果たしてどこまでも成長できる生き物なのでしょうか。
「努力すれば何にでもなれる」
「苦手なことも努力して克服しましょう」
「昨日の自分を超え続けましょう」
私たちは、こうした価値観を幼い頃から教えられてきました。
もちろん、努力することには意味があります。
しかし、人生を長く生きてみると、それだけでは説明できないこともあります。
人には、それぞれ向いていることと向いていないことがあります。
人と話すことが得意な人もいれば、一人で黙々と考えることが得意な人もいます。
大勢の中で力を発揮する人もいれば、一人のほうが能力を発揮できる人もいます。
競争が好きな人もいれば、競争そのものに疲れてしまう人もいます。
つまり、人間は最初から同じではありません。
それなのに、私たちは「みんな同じように成長すること」を求められてきたのではないでしょうか。
人は「自分の役割」の中で成長する
私は、人間は「自分に与えられた役割」の中でこそ、大きく成長できるのではないかと思っています。
ここでいう「役割」とは、社会での肩書きのことではありません。
その人が持っている性格、能力、興味、価値観、経験などから自然に形成される「自分に向いている生き方」のことです。
たとえば、同じ「仕事ができる人」でも、その形はまったく違います。
人を率いることで能力を発揮する人。
専門知識を深く掘り下げる人。
人の悩みに寄り添う人。
文章を書くことで力を発揮する人。
ものを作ることで能力を発揮する人。
一人で自由に仕事をすることで最大限の力を出せる人。
重要なのは、「どこまで自分を鍛えられるか」だけではありません。
むしろ、
「自分はどんな場所なら自然に能力を発揮できるのか」
を知ることが重要なのではないでしょうか。
自分に合わない場所で必死に努力しても、なかなか成果が出ないことがあります。
しかし、自分に合った場所に移った途端、それまで大した努力をしていなかった人が驚くほど能力を発揮することがあります。
これは、その人が突然成長したのではありません。
もともと持っていた能力が、適切な「役割」の中で発揮されただけなのです。
「弱点を克服すること」が本当に幸せなのか
学校では、苦手なものを克服することが重視されます。
数学が苦手なら数学を勉強します。
運動が苦手なら体育を頑張ります。
人前で話すのが苦手なら発表をします。
もちろん、最低限の基礎能力を身につけることは大切です。
しかし、人生という長いスパンで考えたとき、すべての弱点を平均レベルまで引き上げる必要があるのでしょうか。
むしろ、
「苦手なことを人並みにする」よりも、「得意なことを圧倒的に伸ばす」
ほうが、その人の人生に大きな価値を生み出す場合もあります。
たとえば、文章を書く能力が人より少し高い人がいたとします。
その人が「数学が苦手だから」と数学ばかり勉強して、文章を書く時間を失ってしまったらどうでしょうか。
もしかすると、その人には作家、編集者、研究者、ライターなど、文章を書くことで大きな価値を生み出せる可能性があったかもしれません。
「弱点をなくす」という発想だけでは、その可能性を見逃してしまいます。
学校教育は「平均」を作ることが得意だった
ここで学校教育について考えてみたいと思います。
従来の学校教育は、基本的に「同じ年齢の子どもを集め、同じ場所で、同じ時間に、同じ内容を学ばせる」という仕組みです。
これは、多くの人に一定水準の知識や社会性を身につけさせるという意味では、非常に優れた仕組みでした。
しかし、その一方で「個人差」を扱うことは苦手です。
朝起きるのが得意な子もいれば、朝が苦手な子もいます。
集団で学ぶほうが理解しやすい子もいれば、一人で学んだほうが集中できる子もいます。
先生の説明を聞くことで理解する子もいれば、自分で調べて初めて理解できる子もいます。
それでも、学校では基本的に同じ時間、同じ場所、同じ方法で学ぶことが求められます。
その結果、
「学校に適応できる人=優秀」
という錯覚が生まれてしまうことがあります。
しかし、本来はそうではありません。
学校という環境に適応する能力と、人生において価値を生み出す能力は、必ずしも同じではないからです。
不登校の増加は「子どもが弱くなった」だけなのか
近年、不登校の問題が大きく取り上げられています。
もちろん、その原因は一つではありません。
家庭環境、人間関係、学習、心理的な問題など、さまざまな要因が複雑に絡み合っているでしょう。
ですから、単純に「学校教育が悪い」と結論づけることはできません。
ただ、不登校の増加を考えるとき、
「子どもが学校に適応できなくなった」
という視点だけではなく、
「学校というシステムそのものが、多様化した人間に合わなくなっているのではないか」
という視点も必要なのではないでしょうか。
昔よりも、人間の生き方は多様になりました。
会社員だけが人生ではありません。
一つの会社に定年まで勤めることが必ずしも正解でもありません。
インターネットによって、一人で仕事をしたり、世界中の人とつながったり、自分の得意分野だけで収入を得たりすることも可能になりました。
それなのに、教育の基本構造だけは、長い間続いてきた仕組みから大きく変わっていません。
ここには、かなり大きなギャップがあるのではないでしょうか。
これから必要なのは「自分を知る教育」
では、これからの教育に必要なものは何なのでしょうか。
私は、「もっと勉強させること」だけではないと思っています。
むしろ、
「自分を知ること」
を教える必要があるのではないでしょうか。
自分は何が好きなのか。
何をしているときに時間を忘れるのか。
何が苦手なのか。
どんな環境だと疲れるのか。
どんな人といると力を発揮できるのか。
他人には苦痛でも、自分にとっては苦痛ではないことは何なのか。
そして、
「自分は何者として生きると幸せなのか」
を考えることです。
これは、数学や英語と同じくらい重要な人生の基礎科目なのではないでしょうか。
幸福とは「自分ではない誰か」になることではない
人生では、他人と比較する機会が非常に多くあります。
「あの人は出世した」
「あの人は結婚した」
「あの人はお金を持っている」
「あの人は有名になった」
「あの人は成功している」
そうやって他人を見ているうちに、自分も同じものを手に入れなければ幸せになれないような気持ちになってきます。
しかし、人間は一人ひとり違います。
他人にとっての成功が、自分にとっての幸福とは限りません。
だから本当に重要なのは、
「他人より優れているか」ではなく、「自分の性質に合った人生を生きているか」
なのだと思います。
自分を深く理解する。
自分の得意なことを知る。
自分の苦手なことを知る。
そして、自分の能力が最も自然に発揮される「役割」を見つける。
その役割の中で、自分の個性を少しずつ尖らせていく。
もしかすると、それこそが「成長」の本当の姿なのかもしれません。
人は、誰にでもなれるわけではありません。
しかし、
「自分にしかなれない人」になることはできます。
そして幸福とは、誰かになることではなく、
「自分ではない誰かになろうとすることをやめ、自分という人間を最大限に活かして生きること」
なのではないでしょうか。