ゴールデンウィークは自粛生活を利用して、本を何冊か読みました。

 

 19世紀のイギリスを代表する哲学者、J.Sミルの名著『自由論』(斎藤悦則訳、光文社古典新訳文庫)には、こんなくだりがあります。

 

 「人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られる。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」

 

 要は他人の財産や安全を侵害しない限り自由は保障されるということで、「危害原理」と言われます。コロナ禍で考えると、外出自粛が要請され、大人数の会食の制限、飲食店での飲酒禁止などが求められています。「無症状者が気づかずに感染を拡大するかもしれないから」という理由ですが、大多数はコロナに感染すらしておらず、「危害行為」をしているわけでもありません。「おそれがある」という曖昧な理屈で、私権制限が正当化されています。

 

 ミルは『自由論』のなかで「災難が確実でなく恐れがあるだけの場合、危険を冒すに値するかどうかの判断は本人にしかできない。その場合、危険を警告するにとどめるべきだ。強制的に阻止すべきでない」とも述べています。

 

 『感染症と憲法』(大林啓吾編、青林書院)という新刊書も読みました。同書によると、ミルは「感染症予防法によって権力の濫用が必然的に起きるだろう」と述べ、警察(現在で言えば為政者)が職務に忠実であろうとすることで、無実の方の自由が侵害される危険が生じる懸念を示したということです。

 

 ミルの考え方からすれば、酒類の提供禁止や休業要請などは行き過ぎになるでしょう。

 

 コロナ禍における緊急事態宣言やまん延防止等重点措置によって移動の自由、営業活動の自由、表現の自由などの様々な自由が制限されています。しかも、国民が権利制限を欲しているという状況に、私は強い危機感を抱いています。

 

 人間や動植物などの生物は遺伝子を複製して増殖するための乗り物に過ぎないとする『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの『進化とは何か』(吉成真由美編・訳)も読みました。

 

 「インフルエンザなどを引き起こすウイルスは、自分のコピーを作ることが目的で、『自然選択』によって出現した」

 

 ドーキンス博士はウイルス全般についてこんな解説をしています。ウイルスが環境に適応して進化するために変異し続けるのは当然であることが、改めて分かります。

 

 ウイルスの歴史は人類より圧倒的に長いそうです。「ゼロコロナ」といった実現不可能なキャッチフレーズを掲げても意味がありません。世論受けが良いのだろうとは想像しますが、決して正しい対応とは言えません。

 

 とりとめもなくなってしまいましたが、メキシコのコロナビールを飲んで、爽やかな気分になりました。「コロナ エキストラ」と銘打っていますが、これが基本ブランドです。変異種ではありません。