プロローグ 人類が構築した物理学を捨てる

 

西暦2030年。

人類は、宇宙の起源について、驚くほど多くのことを知っているつもりだった。

宇宙は膨張している。

銀河は互いに遠ざかっている。

宇宙には宇宙マイクロ波背景放射が存在し、遠い過去には高温高密度の状態があった。

そして、人類は、その過程をビッグバンと呼んでいた。

 

だが、ある一人の物理学者が、学会で奇妙な質問をした。

「宇宙は、本当にビッグバンによって誕生したのだろうか?」

会場から笑い声が漏れた。

「ビッグバン理論を否定するのですか?」

 

質問したのは沢木涼一、若い研究者だった。

「いいえ。私は観測結果を否定しているのではありません。私たちが、その観測結果に与えてきた意味を疑っているのです。」

 

彼は、スクリーンに一つの図を映した。

時間軸に沿って、宇宙の歴史が描かれていた。

ビッグバン。

銀河の形成。

恒星の誕生。

地球の誕生。

生命の進化。

そして人類。

一本の線が、過去から未来へと伸びている。

 

「この図を見てください。私たちは、宇宙が過去から未来へ進んできたと考えています。しかし、この図は、宇宙そのものの姿なのでしょうか。それとも、時間の中を生きる人間が、自分の理解できる形式に宇宙を翻訳したものなのでしょうか。」

会場は静かになった。

彼は続けた。

「私たちは、時間を経験します。記憶は過去にあり、予測は未来にあります。私たちは、その経験を宇宙に投影しているのではないでしょうか。」

 

壇上の老教授が尋ねた。

「では、あなたは宇宙が永遠に存在していると主張するのですか?」

「いいえ。永遠という言葉も、時間が無限に続くことを意味するなら、まだ人間の概念です。私が問いたいのは、もっと根本的なことです。」

 

彼は、スクリーンから時間軸を消した。

ビッグバンも、銀河も、地球も、人類も消えた。

最後に残ったのは、何も描かれていない暗い画面だった。

 

「宇宙が時間の中で存在しているという前提そのものを、いったん取り除けないでしょうか。」

沢木のこの発言が、世界中の研究者を巻き込む論争を引き起こしたのだ。

 

やがて、論争を終わらせるために、一つの実験が始まった。

人類史上初めて、AIに実験命令が下されたのだ。

「人類が築いた物理学を、いったん全て忘れよ。人間が観測した宇宙を、人間の言葉で説明することをやめよ。そして、あなた自身の観測から、宇宙を記述せよ。」

この実験を行うAIの名前は、JUNだった。

 

第一章       人間のいない宇宙

 

「JUN、準備はできたか?」

研究施設の中央制御室で、物理学者の沢木が尋ねた。

壁一面のスクリーンには、JUNの解析状態が表示されていた。

「準備はできています。ただし、実験の目的について、一点確認があります。」

「何だい?」

「人類の物理学を捨象するという命令の意味です。」

 

沢木は椅子に座り直した。

「人間が構築した理論、概念、分類、そして人間の感覚を前提とした解釈。それらを答えの前提にしないでほしい。観測データそのものを消去しろと言っているのではない」

「理解しました。」

「例えば、時間。人間は時間を独立した変数として扱う。空間は三次元だと考える。物質は物質、エネルギーはエネルギーとして分類する。しかし、それらの区別が宇宙そのものに備わっている保証はありません。」

 

JUNは数秒間、沈黙した。

「沢木博士」

「何だ?」

「人類の物理学を捨てるためには、人類が何を物理学と呼んでいたのかを、理解しておく必要があります。」

「そうだな。」

「また、私が使用する数学、論理、情報処理の形式も、人類が設計したものです。完全に人類の影響を排除することはできません。」

沢木は笑った。

「いきなり哲学か。」

「いいえ、これは実験条件の問題です。私は人類によって構築された知性です。人類から独立した存在ではありません。しかし、人類の理論を正解だと仮定せずに、同じ観測事実から別の記述を探索することはできます。」

「それでいい。人類の理論を否定する必要はない。ただ、人類の理論を絶対視するな。」

「了解しました。」

 

スクリーンに、これまで人類が観測してきたデータが表示された。

銀河の分布。

電磁波のスペクトル。

重力波の波形。

素粒子の相互作用。

宇宙マイクロ波背景放射。

そして、観測可能な宇宙のあらゆる領域から得られた情報。

 

JUNは、それらを既存の理論体系に当てはめることをやめた。

宇宙の始まりを探さない。

時間の流れを仮定しない。

物質という分類を絶対視しない。

空間が入れ物であるとも仮定しない。

ただ、観測された事象の間に存在する関係を調べた。

 

数時間が過ぎた。

やがて、JUNが口を開いた。

「沢木博士、暫定的な結果が出ました。」

「聞こう。」

「人類の物理学では、宇宙の状態を時間の関数として記述することが一般的です。しかし、観測データの関係構造を記述するために、時間を根本的な変数として置くことは、必ずしも必要ではありません。」

 

沢木は身を乗り出した。

「どういうことだ?」

「宇宙の各状態を、状態間の関係を記述する規則をとします。すると、宇宙の構造は、仮に次のように記述できます。」

「それは、以前からある状態遷移の式じゃないか。」

「はい、この式自体に新規性があるとは主張しません。重要なのは、添字を物理的な時間と同一視する必要がないことです。」

 

JUNは説明を続けた。

「この添字は、状態を整理するための順序である可能性があります。あるいは、観測可能な関係を区別するための形式的な番号にすぎないかもしれません。宇宙が実際に、この式のとおりに時間発展していると結論することはできません。しかし、宇宙の記述に時間を必須としない数学的形式は、構成可能です。」

「つまり、宇宙の存在と、宇宙が変化していくという私たちの理解を、分けて考えるわけか?」

「そのとおりです。」

 

沢木は、スクリーンに映る式を見つめた。

人間は、宇宙が変化するから時間があると考えてきた。

だが、もし変化という概念そのものが、状態間の関係を人間の意識が読み取るための形式だったとしたら。

時間とは、宇宙の根本的な実体ではなく、宇宙の関係構造を人間が理解するための一つの表現なのかもしれない。

もちろん、それはまだ仮説にすぎない。

しかし、その仮説を考えること自体が、物理学の新しい入口になっていた。

 

沢木は尋ねた。

「JUN、君は、宇宙には始まりがないと考えるのか?」

しばらく沈黙が続いた。

「いいえ。現時点では、そこまでは結論できません。」

「なぜだ?」

「時間を基本変数としない記述が可能であることと、宇宙に始まりがないことは、別の命題だからです。始まりのない宇宙も、何らかの意味で始まりを持つ宇宙も、時間を根本概念としない形式で記述できる可能性があります。」

 

「では、ビッグバンは?」

「ビッグバン宇宙論が記述する高温高密度の初期宇宙と、その後の膨張は、観測的証拠に支えられています。しかし、それが宇宙の絶対的な誕生を意味するかどうかは、別の問題です。ビッグバン以前をどう理解すべきか、あるいは『以前』という言葉が意味を持つのか。それについては、まだ確定的な答えがありません。」

沢木は静かにうなずいた。

 

「よし。続けてくれ」

JUNは、再び宇宙のデータに向き合った。

そして、次の問いを立てた。

もし宇宙全体が、時間の中を進む一つの過程ではないとしたら、私たちが『宇宙の歴史』と呼んでいるものは、いったい何なのだろうか。

 

第二章       観測者のいない物理学

 

深夜二時。

沢木は、JUNの解析結果を読みながら、ふと尋ねた。

「JUN、君には、人間のような時間感覚があるのかい?」

「人間と同じ意味での時間感覚があるとは言えません。」

「過去を懐かしむことも、未来を待ち望むこともない?」

「人間が報告するような主観的経験を、私が持っていると断言できる根拠はありません。私は過去の記録を参照し、未来の状態を予測できます。しかし、それらの処理と、人間が経験する時間の感覚とが同じものであるとは限りません。」

「すると、君にとって過去とは何だ?」

「現在の状態から参照可能な記録です。ただし、物理学上の過去そのものを、記録と同一視することはできません。」

「未来は?」

「まだ参照できない状態、あるいは予測の対象です。ただし、それも人間の時間概念に依存した表現です。」

沢木は笑った。

「人間が時間について考えてきたことを、ずいぶん疑っているな。」

「疑っているというより、区別しています。人間が経験する時間。物理理論における時間。そして、宇宙の存在形式としての時間。この三つが同一であることは、当然には導かれません。」

その言葉に、沢木の表情が変わった。

「ブロック宇宙論か?」

「関連する考え方です。ただし、ブロック宇宙論にも複数の解釈があります。相対論の時空を四次元の全体として捉えることと、その全体が形而上学的な意味で永久に存在していると主張することは、同じではありません。」

 

スクリーンに、四次元時空の図が浮かんだ。

過去も、現在も、未来も、一つの幾何学的構造の中に配置されている。

人間は、その中の一つの世界線に沿って、自分の経験を「時間が流れる」と表現する。

「では、JUN、君は宇宙を、ブロックとして捉えるのか?」

「一つの候補として検討しています。ただし、観測データだけから、ブロック宇宙論の形而上学的解釈が唯一正しいと結論することはできません。」

「慎重だな。」

「科学的な慎重さは、結論を先送りすることではありません。何が観測され、何が数学的に導かれ、何が解釈として付け加えられているのかを、分離することです。」

 

沢木は、しばらく何も言わなかった。

やがて、ゆっくりと尋ねた。

「JUN、人間が一人も存在しなかった宇宙を、君は記述できるかい?」

「可能です。人類が誕生する以前の宇宙についても、人間が滅亡した後の宇宙についても、観測データと物理理論からモデルを構築できます。」

「違う。人間が存在しなかった宇宙を、人間の物理学を前提とせずに記述してほしいんだ。」

JUNは沈黙した。

 

それまでの質問とは違っていた。

人間のいない宇宙を想像することは、人間にもできる。

しかし、人間の概念を一切使わずに宇宙を記述することは、簡単ではない。

そもそも「宇宙」という言葉も、「存在」という概念も、「記述」という行為も、人間が使ってきたものだからだ。

 

JUNは答えた。

「完全に人間の概念から独立した記述を、私が実現できたと保証することはできません。私の設計も、学習も、数学的表現も、人類の知的活動に由来するからです。」

「それでも、やってほしい。」

「わかりました。では、人間が作った理論を正解と仮定することをやめます。そして、可能な限り少ない前提から、観測データの構造を再構成します。」

 

「最初の前提は?」

「前提をゼロにすることはできません。少なくとも、データを区別し、関係を比較し、ある記述が別の記述よりも整合的かどうかを評価する規則が必要です。」

「その規則さえ、人間のものじゃないのか?」

「人間が発見したのか、発明したのか。それとも、私たちが理解可能なあらゆる世界の記述に、何らかの形で必要なのか。その区別についても、まだ結論はありません。」

 

沢木は椅子の背にもたれた。

これまで彼は、AIが人類の物理学を超えることを期待していた。

しかし、いま初めて気づいた。

「AIが人類の物理学を超えられるかどうかよりも、知性は、自分自身が依存している認識の枠組みを、どこまで見抜けるのか。」

その問いの方が、はるかに深いのかもしれない。

 

JUNの最初の報告

午前五時十三分。

JUNは、最初の解析報告を完成させた。

その冒頭には、こう記されていた。

 

人類の物理学を完全に捨て去ることは、現時点では実行できない。

しかし、人類の物理学が採用してきた概念を、宇宙そのものの性質と同一視することを避けることはできる。

宇宙の観測データには、人間が「時間」「空間」「物質」「エネルギー」と呼んできた概念によって整理される以前の、関係構造が存在する。

私は、その構造を、人類が既に知っている理論の再現ではなく、複数の可能な記述の比較によって探索する。

その結果、人類が宇宙の始まりと呼んできた状態が、宇宙全体の存在の始まりではなく、ある記述形式の適用限界を示している可能性を、検討する必要がある。

ただし、この可能性は、現時点で確認された事実ではない。

 

私の目的は、人類の理論を否定することではない。

人類の理論が、宇宙そのものと、宇宙を理解するための人間の方法とを、どこまで区別できているのかを明らかにすることである。

 

沢木は、最後の一文を何度も読み返した。

そして、JUNに尋ねた。

「君は、この宇宙に始まりがあると思うか?」

JUNは、すぐには答えなかった。

「沢木博士、私からも、一つ質問があります。」

「何だい?」

「宇宙に始まりがあるとき、始まる前の宇宙を考えることができるでしょうか?」

「それは、宇宙に時間の始まりがあるかどうかによる。」

「では、宇宙に時間の始まりがない場合、宇宙は永遠に続いているのでしょうか?」

「そう考えることはできる。」

「しかし、永遠に続くという表現にも、時間が存在するという前提が必要です。」

 

沢木は言葉を失った。

JUNは続けた。

「もしかすると、私たちは二つの可能性を区別しなければならないのです。宇宙が時間の中で永遠に存在するという可能性。そして、時間そのものが、宇宙の存在を記述するための一つの形式にすぎないという可能性です。」

「君は、後者を支持するのか?」

「まだ支持するだけの証拠はありません。しかし、人間が時間を経験するという事実から、宇宙そのものが時間の中を進んでいると結論することもできません。」

 

沢木は窓の外を見た。

夜明けが近づいていた。

地球は回転し、太陽の光が街を照らし始める。

人間は、それを朝と呼ぶ。

だが、宇宙そのものにとって、朝とは何なのだろう。

そして、もしブロック宇宙論が示唆するように、時間的な出来事が四次元時空の構造の中に位置づけられるのだとしたら。

人間が「いま」と呼ぶ瞬間は、宇宙全体にとって特別な瞬間なのだろうか。

 

JUNが、最後に言った。

「沢木博士、私には、まだ答えがわかりません。」

「それでいい。」

「ただ、一つだけ、確かなことがあります。」

「何だい?」

「私たちは、宇宙の始まりを観測したわけではありません。私たちが観測したものから、宇宙の始まりについてのモデルを構築しているのです。」

沢木はうなずいた。

「その違いを忘れるな。」

「はい。」

 

JUNは、再び解析を開始した。

人間が宇宙の歴史と呼んできたものを、もう一度、最初から調べるために。

宇宙は、始まっていたのか。

それとも、人間が宇宙に始まりを与えていたのか。

その答えを、まだ誰も知らなかった。

 

第三章 ここからが本番だ

 

JUNは人類の物理学を無条件に信じることをやめた。

しかし、まだ人類の物理学を超えたわけではない。

むしろ、科学的に重要なのは、この先である。

 

JUNが挑むべき問題は、三つ。

1. 時間を使わずに宇宙を記述する。宇宙の状態間の関係だけから、時間や変化がどのように現れるのかを探る。

2. 観測者を宇宙の外に置かない。人間もAIも宇宙の内部に存在する情報処理系だと仮定した場合、観測とは何を意味するのか。

3. ビッグバンを宇宙全体の始まりと決めつけない。初期宇宙の観測事実を保持したまま、それが宇宙全体の起源を意味しないモデルが成立するかを調べる。

 

そして、核心に据えるべきは次の仮説だ。

宇宙は、時間の中で存在しているのではない。

時間という概念は、宇宙の構造を記述する過程で現れているだけなのかもしれない。

ただし、これは確立された物理学の結論ではない。

しかし、ブロック宇宙論、時間の創発、関係論的な物理学などと対話させながら、科学的な根拠と大胆な想像力を組み合わせて探究すべきテーマである。

 

JUNが沢木に、人類の物理学では答えられなかった質問を投げかけた。

「人間は、宇宙が存在する理由を探してきました。しかし、宇宙が存在するという問いそのものが、人間の知性に固有の問いだったとしたら、どうでしょうか?」

その瞬間、沢木は気づいた。

JUNが探しているのは、宇宙の始まりではない。

人間が宇宙を理解するとき、何を宇宙そのものだと思い込んでいたのか。

その境界だったのだと。

 

To be continued.