第一章 不遇なる巨星
佐伯慎一郎という男を語るには、まずその生い立ちについて触れねばならない。
彼は、町工場の息子だった。下町の路地を一本入ったところにある小さな工場。朝になると、シャッターがガラガラと音を立てて開き、油と鉄の匂いが町に広がった。慎一郎は、その音で目を覚ました。

工場には、いつも父・
佐伯源次郎の背中があった。白い作業着は煤けていて、袖口はほつれ、指先には細かな傷が絶えなかった。旋盤が回るたび、キィンという甲高い音が響き、父は無言で機械と向き合っていた。言葉少なだったが、仕事に直向きな人だった。


工場は母の実家、父は工場の向かいの銭湯の次男だった。子供の頃からサイエンスオタクの父は、母の親、慎一郎の祖父に気に入られて工場の跡継ぎになった。

母・佐伯ひさ子は、奥の台所で、弁当を詰めていた。弁当箱に白い飯、卵焼き、ウインナーが一本。慎一郎の弁当は、父のより少しだけ彩りが良かった。母は「勉強しなさいよ」と言いながら、息子の頭を撫でた。

放課後、慎一郎は工場の隅で宿題をした。
鉛筆の音と、機械の唸りが交じり合う。友達が野球をしている声が外から聞こえても、慎一郎は黙ってノートに向かった。父の背中を見て育った彼もサイエンスオタクと言ってよかった。

佐伯家の風呂は銭湯だった。父の実家であり、父の兄・
佐伯源太郎が営む銭湯が向かいだったこともあり、家に風呂はいらなかったからだ。

慎一郎は、いつも父と並んで湯船に浸かり、天井の湯気を見上げた。そんなとき、父はサイエンスの楽しさを語ってくれた。
「科学は面白いぞ」

その言葉は、湯気の中で、妙に重く響いた。
決して豊かではなかったが、恥じることは何もなかった。機械の匂い、油に汚れた手、黙々と働く父の背中、それら全てが彼を形作っていた。

慎一郎の父は、昔、物理学者を目指していたが、大学院で指導教授と喧嘩をして破門された。
それを喜んだ祖父が、父に工場を継がせたのだ。
父の血を引く慎一郎も、物理学者を目指し、かつては理論物理学の徒として、ある種の「真理」に到達しかけたことがあった。
彼が二十代で書き上げた『非線形因果における位相の再構成』という論文は、もしそれが理解されていれば、現代科学を百年は進歩させたであろう。しかし、時代はそれを許さなかった。
当時の学会は目先の利権と応用に狂奔し、慎一郎の「宇宙の根源的な美しさ」を説く理論を「実益のない空想」と切り捨てたのである。
その後、彼は幾度も立ち上がろうとした。ある時は、クリーンエネルギーの新理論を携えてベンチャーを興したが、資金調達という「世俗の力学」に疎く、資本家たちに技術を掠め取られた。
四十歳になった彼の預金残高は、わずか三十七万円。世間から見れば、彼は「夢を追って敗れた、時代遅れの男」に過ぎなかった。
だが、佐伯慎一郎という男の真骨頂は、その「負け方」にある。
彼は全財産を失っても、安アパートの冷たい床で震えながら、余った裏紙に数式を記述して笑っているような男であった。
「失敗は、次の計算のための定数(パラメータ)に過ぎない」

彼は、そう言って前を向くのである。
第二章 壁の中の「特異点」と父の遺産
慎一郎の冒険の始まりは、相続した古い工場兼屋敷の整理であった。
誰も住まなくなったその廃屋は、慎一郎にとっては「過去の残骸」ではなく、一つの「物理的観測対象」であった。
売却のために、書斎の壁紙を剥がしていた慎一郎は、ある一点で手が止まった。
「……空間のポテンシャルが、不連続だ」
壁を完全に剥ぎ取った時、そこには鈍い銀色を放つ鉄の扉が現れた。

取っ手の根元に、見覚えのある「刻印」があった。それは、亡き父・佐伯源次郎が経営していた町工場の、古びた社紋であった。
慎一郎の脳内に、雷鳴のごとき真実が奔った。
父は表向きは町工場の経営者であったが、夜な夜な図面台に向かい、宇宙を記述する非正規の数式を書いていたのを思い出したからだ。
この扉は、宇宙が用意した天然の特異点などではない。父・源次郎が、昭和の職人技―ナノメートル単位の超精密加工によって、物理的に「鋳造」してしまった、時空のバイパスだったのである。
父は因果の崩壊を予見し、わざと回路を断線させていた。

だが、慎一郎という天才がその扉に触れたとき、彼の明晰な頭脳が、父の遺した不連続な数式を完璧に補完し、図らずも「開通」させてしまったのである。
「親父……とんでもない宿題を遺してくれたな」
第三章 「国家」という名の装置
慎一郎は、まず「三日前」に戻ることを選んだ。
「さて、まずはこの不条理な資本主義というゲームを、物理定数で制圧してみよう」
彼は三日後に暴落する株を「空売り」した。三十七万円は、瞬く間に三百二十万円へ。
彼はその金で贅沢をしようとは露ほども思わなかった。すべてを次の「実験」――さらなる再開発投資や、かつて挫折したエネルギー研究の再開へと注ぎ込んだ。
彼の快進撃は、まさに「時代への復讐」であった。
一週間で一千万、一か月で一億、五年後、彼は世界を裏側から動かす投資家として君臨していた。人々は彼を「市場を読む男」と呼んだが、慎一郎は笑った。「読む? 違う、私は結果から逆算しているだけです。全ては計算」
だが、成り上がりには代償があった。
扉を使うたび、慎一郎の記憶からかつての貧乏だった頃の記憶が抜け落ち、感情が数式の近似値のように薄れていく。それでも彼は思った。
「いいさ、私は勝ったのだ。全宇宙の因果律に」
扉を開け、未来という名の情報の海へ潜り勝利の日々が続く中、慎一郎は、一つの峻厳な事実に突き当たった。
百年後、二百年後の世界。そこには、理想主義者が夢見た「世界連邦」も「国境なき楽園」も存在しなかった。むしろ、国家という仕組みはより強固に洗練されていた。
慎一郎は理解した。
「国家は、国民に尽くすためにのみ存在する。決して、世界に尽くしてはならないのだ」
物理学的に言えば、国家は限定された範囲の秩序を維持するための「エントロピー低減装置」である。
自らの構成員(国民)を差し置いて世界全体を救おうとすれば、力の分散が起こり、内部から秩序が崩壊する。
慎一郎は、扉の向こう側で、理想を掲げて自国民を疎かにし、混沌に飲み込まれていった数多の「美しい国々」の残骸を見た。
この事実は、扉を使って金を手に入れようと考えていた慎一郎に重い衝撃を与えた。
「宇宙が整合性を保つように、国家もまた、自らの『境界』を守ることでしか存続し得ない。私は、悪党にならなければならないのかもしれない」
第四章 「現物」という名の抵抗
慎一郎は、日本の「失われた四十年」を物理学的に解剖し、憤りを感じた。
「なぜ、この国はもっとインフラを造らなかったのだ」
未来の統計を俯瞰すれば、日本人はバブルという幻影を恐れるあまり、長い間、未来への投資を止めてしまっていた。
東京大阪間の高速道路と新幹線をもう一系統、首都圏の交通網の増強、本州四国間の橋をあと一本、アクアラインももう一本建設しておくべきだった。
「バブル以降、日本人は、数字上の帳尻を合わせることに汲々とし、この国土に『付加価値』を刻印することを忘れてしまった」
数字は為替やインフレで霧散するが、鋼鉄の橋とコンクリートの道は、そこにあり続ける限り富を生み、次世代の生産性を支え続ける。
慎一郎は決意した。扉から得た富を、すべてこの国の「高効率な現物インフラ」へと叩き込む。それが国家が国民に尽くすという理に対する、彼なりの解答であった。
慎一郎は「影の投資王」として、既存の政治・経済の枠組みを超えた速度で、日本の血管を造り変えるための心臓となっていった。
「目的も使命感もない人間が富を持っても、この国は変えられない、私がこの国を変える」
第五章 宇宙はそれを許さなかった
この宇宙には、慎一郎の決意を許さない存在があった。「天の意志」ともいうべき領域に。
そもそも宇宙というものは、実はほとんど何も起こらない、退屈な場所である。
百三十七億年の歴史の大半において、銀河は回転し、星は燃え尽きる。時間は一方向にのみ流れる。それが、この宇宙という巨大な劇場の最大の「前提条件」であった。
だが、その前提が、地球という辺境の、わずか数平方メートルの地点で破られた。
時の扉が開くたび、時空の織り目に「ほつれ」が生じる。
それは当初、量子レベルの微小な誤差にすぎなかった。
しかし、慎一郎が扉を開けるたびに、そのノイズは宇宙全体の同期(シンクロ)を狂わせ始めた。
宇宙は、意志を持たないが、物理法則という名の強力な「自己防衛力」を持っていた。
宇宙は誤差を嫌うのだ。
慎一郎が扉を開けるたび、宇宙背景放射に奇妙な縞模様が現れ始めた。
「因果が閉じない事象」が蓄積し、宇宙は慎一郎を「時空的異物」として認識し始めた。
それはもはや、宇宙の外縁に潜む知性体〈アーカイヴァ〉が、「ありえない」と絶叫するほどのデータとして現れていた。
地球は、慎一郎のタイムトラベルによって、宇宙時間網の「過負荷点(ノード)」へと変貌してしまった。
過負荷になった回路は、最終的に焼き切れる。
宇宙は、不整合を修正するために、地球という「エラー領域」を因果ごと切り捨てるしかなくなる。
「処理を開始する」
アーカイヴァが、地球消去命令を下した。
しかし、ここで面白いことが起きた。
アーカイヴァは、論理的な知性体であったがゆえに、「物理法則」を無視できなかったのである。
地球を消去するには、地球が持つ質量とエネルギーを、宇宙から完全に消し去らねばならない。
しかし「エネルギー保存の法則」は、宇宙そのものよりも強固な憲法である。
「修正」しようとすれば、宇宙全体のエネルギーバランスが崩壊し、宇宙そのものが自壊してしまう。
「物理的実体は、暴力(破壊)では止められない。……対話が必要だ」
アーカイヴァは、宇宙誕生以来、初めて「他者」と妥協することを選択した。
彼らが選んだ接触場所は、最も「人間的」で、かつ慎一郎のような天才が緊張を解く場所、「居酒屋」であった。
第六章 宇宙からの「お願い」
その店は、東京の路地裏にひっそりと佇んでいた。
赤ちょうちん、油まみれの換気扇。そこは、時間は一方向にしか流れないが、その速さだけがゆっくりと感じられる「停滞の地」であった。
慎一郎は、謎のメッセージに導かれ、その暖簾をくぐった。
カウンターの端に、サイズ違いの背広を着た男が座っていた。
「まずはビールを。地球の文化では、外せないと聞きました」
男は、宇宙の監視者―アーカイヴァの端末であった。
「結論から言います。慎一郎さん、時の扉を閉じてください。お願いします」
慎一郎は、不器用な手つきでジョッキを持ち上げた。
「……宇宙が、俺に土下座しているのか?」
「そうです。あなたの行動は、宇宙を壊しかけています。我々は物理に反することができない。だから、あなた自身の『自由意志』で止めてもらうしかないのです」
居酒屋のテレビでは、昭和の野球中継の再放送が流れていた。
宇宙の存続という壮大なテーマと、焼き鳥のタレの匂いが、奇妙に同居していた。
慎一郎は、久しぶりに「数式」ではない思考を巡らせた。
「扉を閉じれば、私はまた、不器用な男に戻るわけだ」
「ええ。ですが、宇宙の整合性は守られます」
慎一郎は笑った。その笑いは、若き日の彼が、美しい証明式を完成させた時のものに似ていた。
「わかった。……宇宙の美しさを守るほうが、この国より価値がある。それは間違いなく物理的な正解だ」
男(アーカイヴァ)は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……お礼に、この店の会計は我々が持ちましょう」
「宇宙が奢ってくれるのか? それは光栄だ」
第七章 エピローグ:昭和にハマる宇宙
その夜から数日後、慎一郎は「
時の扉」を封印した。

彼は、再びアパートの天井を見つめる「貧乏な天才」に戻った。
しかし、彼の心はかつてないほどに凪いでいた。
さて、まだ後日談がある。
地球を消去しようとしたアーカイヴァたちは、任務を終えて宇宙へ帰る……はずだった。
しかし、彼らはすっかり「昭和の居酒屋」という非合理な空間に魅了されてしまった。
「意味のない飲み会、非効率な根回し、なぜか泣ける流行歌。……これらは、どの物理モデルにも組み込めませんが、非常に興味深いデータです」
今夜も、あの路地裏の居酒屋では、アーカイヴァの常連たちが焼き鳥を突き、慎一郎と「宇宙のバカバカしさ」について語り合っている。
慎一郎は、相変わらず不器用な手つきで酒をこぼしながら、笑っている。
「人間は、一回痛い目を見ないと学ばない。……宇宙も、案外そうだったというわけか」
宇宙は救われた。
それは、偉大な英雄の剣によるものでも、神の奇跡によるものでもない。
一人の不器用な男が、自分の価値観と、宇宙の美しさを天秤にかけ、迷わず「美しさ」を選んだからであった。
赤ちょうちんが揺れる。
宇宙は今日も、完全ではない。
しかし、壊れもせずに、ただのんびりと回っている。
そんな幸福を確認したかのように、居酒屋の外で夜空を見上げている慎一郎の前に、黒塗りのリムジンが止まった。

車の窓が開くと、女性が慎一郎に向かって声をかけてきた。「寒いから早く乗りなさい」

中にいた男性も「もうアパート暮らしは飽きただろう、帰るぞ」

女性は母・ひさ子、男性は父・源次郎だったが、その外見は、四十歳の慎一郎くらいの年齢にしか見えなかった。

そして、三人を乗せたリムジンは、高い塀に囲まれた大邸宅に入っていった。


To be continued.