物事が始められ、それが広まる時には、それ相応の「良い」価値が、その中に内在されています。もちろん、新しいことを始めるというのは、いろいろな理由があるにせよ、過去の失敗を正したり、過去の例から、これはうまくいくだろうという観点から始めるためです。

 

ただ、時が経つにつれて、その価値がすり替えられ、いつの間にか問題になるような方向に行ってしまうということが多いと思います。

 

これは、人類の集団的な記憶力の限界、心理的な弱さ、感情に動かされやすい性質から来ているのではないでしょうか。いわゆる、物事の形骸化が進むということなのでしょうが、渦中の人たちは、そうとは知らずに続けてしまいます。

 

例を挙げればきりがないのですが、例えば、「ゆとり教育」でしょうか。そもそも、「偏差値教育」で実現できなかった、考える力や応用力を養うための教育でしたが、いつの間にか、授業を減らすことが目的のようになってしまいました。

 

「ふるさと納税」は、昔お世話になった、もしくは、その自治の発展に貢献したい、国民が、自分の裁量によって納税額の一部を寄付し、自治体も、そのお礼として、地元の産物をプレゼントで返礼するという良心に満ちた制度であるのにもかかわらず、いつの間にか、お礼の品々に注目が行き過ぎ、自治体同士が税金獲得という名の「パイ」の奪い合い(過当競争)になっています。(これは、片山善博氏の新聞記事を参照しました)

 

カリブ海の国々の「タックスヘイブン」も、いろいろな思惑があったにせよ、そもそもは、カリブの新興国を発展させるための資金集めが目的でしたが、大金持ちのための「脱税所」になってしまいました。(パナマ文書が出るずっと前から、タックスヘイブンは税逃れに関して批判されていました、また、アメリカ国内や他の地域でも政策として税金をゼロにしているところはあるので、それ自体が悪とは限りません)

 

社会主義国家にしても、市民が平等に豊かになり、互いに助け合い、生産を上げ、貧富の差をなくそうとした素晴らしい思想から始められましたが、しばらくして、市民は貧困の平等を強いられ、支配者が富を独占しました。

 

資本主義は、個々人の努力や工夫を貨幣によって評価しながら、社会の発展や問題解決に貢献するというシステムという最初の理念が、金が金を生み、お金を持つものが政治や経済を支配し、貧富の差を広げるシステムになってしまいました。

 

民主主義は、多くの人々の声を聞き入れ、議論する場を設け、個人と公共の価値が共存できる政治実現のためのツールとして開発されましたが、しばらくして、市民を扇動する手段となり、衆愚政治が蔓延し、問題が遅々として解決されない原因になっています。

 

もともとは、立派な理念から始まったものが、次第に、その精神が忘れ去られ、初期の遺産を食いつぶしたり、地位を守ることに時間を費やし、目先の利益だけを求めるようになって、モラルハザードや社会問題につながっていくのでしょうね。