「和解」と、{「謝罪」と「赦し」}の違いとは その1
オバマ大統領の広島訪問に関係のある事どもを取り上げてきましたが、その中心になるのが、被爆者の到達した「和解」の哲学です。このブログでも何度か解説をしてきましたが、例えば、「和解」の力
あるいは、大統領の謝罪 No. 2
(「和解」の力 その4)
またその前後のいくつかのエントリーをお読み頂ければ幸いです。
今回は、これまで触れてこなかった「赦し」という概念について考えて見たいと思います。一つには、「赦し」と「謝罪」が対概念だからです。簡単な図式では、誰かが罪を犯すという形で悪いことをした、それについて犯罪者が謝罪をし、被害者がその罪を赦す、あるいは許す、というパターンです。
しかし、現実を見ると、ものごとはそんなに簡単ではありません。例えば死刑制度の是非を論じる際にしばしば登場する被害者の遺族の持つ切ない気持があります。子どもを殺された母親が「犯人があの子と同じ目に遭わない限り、あの子は浮かばれません」という気持に何と答えたら良いのでしょうか。これを「赦し」と考えられるのでしょうか。さらにそれは、「目には目を、歯には歯を」というルールの意味とも関わってきます。
英語で「赦し」は「forgiveness」です。動詞になると「forgive」つまり「赦す」です。この言葉と一対の言葉として、英語を母国語として育った人たちの頭に浮かぶのは「forget」です。つまり、英語圏では「赦す」と「忘れる」とは、対の概念として扱われています。そして、多くの人が「正しい」対応の仕方として受け入れているのが「forgive
but not forget」です。つまり、「赦すけれど忘れてはいけない」です。
でもそれだけではないのです。こんな表現が意味を持つのは、それと違う考え方もかなり根強いからなのです。例えば、子ども同士の喧嘩や兄弟喧嘩のときに、親が子どもに諭す言葉はしばしば違っていて、「forgive
and forget」なのです。「お兄ちゃんだって悪いことは分っているんだから、もう好い加減にして忘れなさい」くらいの意味でしょうか。
それに加えて、「Men forget but never forgive. Women forgive
but never forget.」という俚諺まであるのですからことは複雑です。加えて、「赦し」には宗教的な意味もあります。仏教や神道にはあまり現れないようですが、キリスト教やユダヤ教では中心的な概念の一つです。
本題に入る前に、くどくどと背景の説明をする悪い癖が出てしまいましたが、その「赦し」について深く考える上で貴重な本があります。サイモン・ヴィーゼンタール著の『The
Sunflower(ひまわり)』です。サイモン・ヴィーゼンタールは、1100人以上の元ナチス犯罪者を探し出し、法の裁きに従わせたことで知られています。もっとも著名なのは、アドルフ・アイヒマンの裁判かも知れません。
今回は、表紙の写真だけ御紹介しましたが、次回にはその内容と、本の第二部に載せられている50人以上の知的な分野でのリーダーたちの「赦し」についての「シンポジウム」の内容も御紹介したいと思います。
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