2024年7月29日 月曜日 晴れ

今朝の比叡山です。

朝からもう暑いです。

朝食を済ませ、ゆっくり。

風邪ひいて調子が良くない。咳は出ないが鼻水が出る。

今日は終日休養ですな。

テレビやYoutube を見ながらダラダラする。

お昼を済ませ、ちょっと昼寝です。

午後の比叡山です。

今日は、強烈に暑いです。

ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。

今日で武道センターは最後です。

先日の京都守護職上屋敷移築門も前に、大日本武徳会「薫風句碑」があります。

 

大日本武徳会「薫風句碑」

「風薫る左文右武の學舎跡」   野風呂

後ろに説明版があります。

薰風句碑
  風薫る左文右武の學舎跡・野風呂
  鈴鹿登(野風呂)は大正9年に文科教授として武道専門学校に赴任し 大東亜戦争の終結後 昭和22年廃校時に最後の校長として武専を収めた ホトトギス同人の俳人で 京鹿子誌をも主宰していた 生涯を 通じて三十萬余句をものしたという
  武専で授業の傍「小男鹿俳句会」を起して指導していたが 廃校と共に中絶した 昭和34年に至り句会は再興し 又その指導をすることとなった
  昭和38年 野風呂の喜壽を祝して句碑建設を計画し 翌49年3月洛北高雄より碑石を得て旧母校の正門脇に据えた
    左文右武句碑ともいう
      昭和46年没    八十五歲
   大日本武徳會 武道專門學校 小男鹿俳會
(現地眼分のまま)

 

鈴鹿 野風呂(すずか のぶろ、1887年4月5日 - 1971年3月10日)は、俳人です。

本名・登。

 京都生まれ。鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1916年京都帝国大学文学部国文科卒。高濱虚子に師事、「ホトトギス」同人。大学卒業後、鹿児島の川内中学校(現・鹿児島県立川内高等学校)教諭となる。1920年京都に戻り、大日本武徳会武道専門学校 (旧制)の教授となる(戦後、同校最後の校長に就任)。「京大三高俳句会」を母体として日野草城らとともに「京鹿子」創刊。同誌はのちに野風呂が主宰となり、関西におけるホトトギス派の中軸となっていった。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後は大阪成蹊女子短期大学教授を務める。1968年京都市文化功労者。句集に『野風呂句集』『浜木綿』 『俳諧大矢数』ほか多数。1971年に83歳で死去した。「京鹿子」発行所でもあった生家は現在は京鹿子社により野風呂記念館として運用されている。(出典:ウキペディア)

 

武道専門学校と小男鹿俳句会について詳しくは、リンクをクリックしてください。

今日はこのへんで。

今日の京都は、最高気温39.1℃、最低気温26.3℃でした。

みなさまもお体ご自愛を。

しばらくして夕食です。

きょうの夕食です。

鱧と大葉のフリット、ペペロンチーノ、サラダです。

鱧と大葉のフリットです。あっさりいただけます。

ペペロンチーノです。美味しい。暑い日にピッタリ。

桃とセロリのサラダです。

今日も美味しくいただきました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。