2024年4月22日 月曜日 曇り

今朝の比叡山です。

昨夜は雨けっこう降りました。

朝食を済ませ、ゆっくり。

今日は、お昼にJTBを予約しているので、それまでレコードを聴きながら旅行の再チェックです。

McIntoshi MX110 +350B + Altec 412Cです。

フィル・ウッズです。

早めのお昼を済ませ、自転車で出発です。

今日は花粉ちょっとましです。ヒノキも終わった?

北大路のイオンモールのJTBへ。予約してあるのでスムーズです。

旅行代金をカードで支払いです。あとは旅行の日程表待ちです。

イオンモールでぶらぶら。ついついミイスタードーナッツで買ってしまう。(笑)

気温が上がってきました。町はハナミズキが満開です。ツツジは咲き始めました。

帰宅して、ちょっとおやつです。もちろんドーナッツです。

暑いんで、バラに水遣りです。バラも咲き始めています。

ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。今日も八ツ橋のお話の続きです。

京銘菓八ツ橋のお話Part3! は発祥を巡る騒動その1です。

京都人は、争いごとが嫌いです。腹読めないと言われますが、「それぐらい気づけよ」という文化です。あくまで、当たりは柔らかです。

八ツ橋の発祥を巡る騒動 

八ツ橋の普及には西尾松太郎・為治親子とその祖先が関わっています。しかし八ツ橋に関する文献の多くは戦後発行であり聖護院八ツ橋総本店・井筒八ッ橋本舗からの聞き取りに頼る部分が多く、戦前に発行された京都名物紹介本『京の華』についても為治本人から聞き取った内容を掲載しているだけの可能性があり、詳細についてはいずれも正確性・中立性が保証されていなませんゆえに前述した起源についての2つの説を含め、業界各社で発祥などを巡って対立するケースが存在します。

 

その1:「最古の業者」を巡る対立

 聖護院八ツ橋総本店と本家西尾八ッ橋はともに、創業について『京の華』の記述に近い「1689年(元禄2年)に聖護院の森で菓子を発売した」という点で共通していますが、これには両社の設立経緯が関係しています。「聖護院八ツ橋総本店」は西尾為治が個人で営んでいた和菓子店・玄鶴堂を1926年(大正15年)に法人化して誕生したものですが、設立まもなく経営危機に陥ったため1930年(昭和5年)に西尾為治個人の破産が確定し、当時の商法の規定に従って経営権は専務であった鈴鹿太郎に引き継がれました。設立に際して事業に関わる全てを現物出資していた西尾為治は個人資産を全て失ったと考えられ、また息子の西尾為一も聖護院八ツ橋総本店に残留することができまませんでした。

 西尾為一は1947年(昭和22年)に個人で八ツ橋の製造販売を再開し、後に「本家西尾八ッ橋」の基となる和菓子店を開店します。この和菓子店は1952年(昭和27年)に「本家八ッ橋聖護院西尾」を名乗って法人化しますが、『聖護院』を名乗り『創業二百六十余年』『本家八ッ橋』といった文言を宣伝に用いたことで聖護院八ツ橋総本店から提訴されます。1959年(昭和34年)に西尾側が『聖護院』などを使用しないことで和解が成立し、社名からも「聖護院」を削除して今の社名となった。法廷で事実上「西尾為治の継承者は聖護院八ツ橋総本店」が認められた形であったが、1969年(昭和44年)に京都府が『100年以上続く老舗業者』を表彰した際に「最古の八ツ橋業者」として本家西尾八ッ橋が表彰を受けました。これを不服とした聖護院八ツ橋総本店は、表彰されるべきは自社である主張を記した「聖護院文書」と題した冊子を同業他社に配布するに至っています。

 なお、西尾為治をルーツとする業者は他に、為治の次男・西尾為忠が構えた「八ッ橋西尾為忠商店」、三男・西村源太郎が構えた「本家八ッ橋」が存在しています。このうち少なくとも本家八ッ橋は本家西尾八ッ橋と同じ創業地・創業年を掲げていますが、本家西尾八ッ橋が「為治の祖先」としている創業者について、本家八ッ橋は「西村彦左衛門」と具体的な名前を挙げている。なお、「西村」姓は西尾松太郎の旧姓です。

京都で同業者の裁判は結構あります。暖簾分けや相続がらみの本家争いが多いです。

今日はこのへんで。八ツ橋の争いはまだ続きます。(笑)

夕食までレコードを聴きましょ。暑くなってきたので石です。

Leak Stereo30 Plus + Goodmans Double Maximです。

バディ・デ・フランコです。

ソニー・ロリンズです。

しばらくして夕食です。

今日の夕食です。

鱈のフリット、キャロット・ラペ、サラダです。美味しい。

今日も美味しく頂きました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。