2024年3月7日 木曜日 晴れ

今朝の比叡山です。

久しぶりの晴れです。

朝食を済ませ、ゆっくり。

散髪に行くまで、3階のベランダとトップライトの植物に水遣りです。

バラもクレマチスも芽が出てきました。

自転車で北野まで散髪に行きます。

往路に今出川大宮のプチメック(通称:赤メック)でお昼のパンを買う。観光客がイートインしてます。良く流行っていて朝一いかないと欲しいパンがない。今日も。

散髪を終え、復路に北野の山田フライ専門店でコロッケを買う。

帰りに寺之内通を走っていると妙顕寺の塔頭の泉妙院の門が開いていた。ここは尾形光琳一族の菩提寺ですが、普段は非公開です。庭掃除の女性の許可を得て撮影する。

帰宅してお昼です。プチメックの美味しいパンです。ちょっと高めです。(笑)

お昼を済ませ、ちょっと昼寝です。

午後の比叡山です。

花粉を吸いこんで爆睡した。

ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。

今日も五大力さんです。

行者堂と準提堂本堂の間を奥に進むと一群の石仏とその左(西側)に祠があります。

その祠の左(西側)が人食い地蔵です。

これが人食い地蔵です。

人食い地蔵

 保元の乱で敗れ讃岐国に配流された崇徳上皇は1164年、46歳の時なくなりました。

 その後都では、大火・はやり病・饉等の為多くの命が失われ、これを崇徳上皇の祟りと恐れた町衆が、「崇徳院地蔵」祀り供養しましたが、「すとくいん」が「ひとくいん」となまり、「人食い地蔵」と呼ばれた事が、江戸時代の地図に見ることができます。

 「聖護院の森」の中に祀られていた地蔵尊は、明治維新、修験道廃止の時代の流れの中で明治30年頃に現在の場所に祀られました。

(現地説明より)

喰い地蔵
 このお地蔵様は、非業の死を遂げられた崇徳上皇の霊を慰めるため建立されたもので、正しくは「崇徳院地蔵(すとくいんじぞう)」です。


 保元元年(1156)、保元の乱が勃発します。
 朝廷が崇徳上皇派と後白河天皇派に分かれたことによるこの乱は、崇徳上皇派の敗北で終結しました。
 戦に破れた崇徳上皇は讃岐国に配流されました。
 やがて望郷の念にかられた崇徳上皇は、自らの魂が望郷の鬼と化さぬ様にと3年の月日をかけて五部大乗経を写経します。
 しかし、弟君の宮藤原忠通を通じ後白河法皇に送り届けた写経は崇徳上皇のもとに送り返されてしまうのでした。
 焼かれ、廃棄されればせめてその灰でも都の近くに留まろうものが、罪滅ぼしの写経がわざわざ送り返された事に絶望した崇徳上皇は、「経文は鬼神に捧げ自分も鬼となって恨みを晴らす」と自らの舌先を食い破り、その血で誓いをたて、都を呪ったと言われます。
 髪、髭、爪など延びるにまかせたその姿は正に鬼そのものの容姿であったと言われ、長寛二年(1164)についに再び故郷の地を踏むこと無く46歳の若さで崩御されます。
 その後、京では後白河天皇派に関係する人が相次いで死去し、更には京の三分の一を灰燼と帰した安元の大火を始めとする災害や政治不安など、社会の動乱が立て続けに起こります。
 これを祟りと恐れた町衆が崇徳上皇の霊を慰めるため崇徳院地蔵を建立し、現京大病院敷地内、当時の聖護院の森の中へまつりました。
 多くの人々が死んでいったという恐ろしさの為か、いつの頃からか「すとくいん」が「ひとくい」と訛り、「人喰い地蔵」と呼ばれるようになったと考えられます。
 そして江戸時代に入ると、菅原道真や平将門と並び日本三大怨霊の一人として数えられるようになりました。
 ここからも崇徳院の呪いがどれほど恐れられていたのかが伺えます。
 明治十三年頃に当初の場所より当院へ移し替えられたと言われています。

(当院HPより)

今日はこのへんで。

しばらくして夕食です。

今日の夕食は、山田フライ専門店の生コロッケを家で揚げました。

美味しいですよ。

今日も美味しく頂きました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。