2024年3月6日 水曜日 曇り
今朝の比叡山です。
雨あがったようです。北風が強いです。
朝食を済ませ、ゆっくり。
今日はもオーディオのテストです。
先日繋いだサンバレーのLs3/5a+Quad77です。
CDを試聴です。この組み合わせは、相性がいいようです。
お昼を済ませ、ちょっと昼寝です。
午後の比叡山です。
先日から読んでいたチャリー・パーカーの伝記を読み終わる。結構面白い。時代と人脈と他のアーティストとの関係がよくわかる。またニューヨークに行きたくなった。
ちょとこのへんで洛中散歩の続きでも。
今日も五大力さんです。積善院準提堂本堂にある仏様の最後の1つです。
わかりにくいですが左奥です。
定泉院
定泉院(じょうせんいん)は役行者(えんのぎょうじゃ)をお祀りする寺として創建されました。
近世聖護院村修験、明治初年の寺院明細によると定泉院の開基は円暁であるとされます。
円暁は宝永三年(1706)に寂を示した事から、定泉院が創建されたのは千六百年代後半であり、創建当初から聖護院に参勤していたと考えられます。
しかし天明大火で多くの記録が焼失したため創建当初の所在地は判明していません。
現熊野神社の南、積善院に隣接する形で存在していたと伝わりますが、先述の理由により天明の大火以後の再建と推測されます。
天明大火以後は、嘉永三年(1850)に八世森田妙道が定泉院を相続しました。
その後廃寺となった年月日は定かではありませんが、明治三年の聖護院末寺調帳にはその存在が示されています。
廃寺以後は畳店を商いとし、聖護院の畳の御用を扱う事となります。
諸仏は土蔵に祀られていましたが、平成十三年に積善院へ合祀されます。
平成二十六年に積善院本堂が改修された時、役行者像も本堂内の現在の場所に安置されました。
神変大菩薩
役行者(えんのぎょうじゃ)は伝説上の人物ではなく、六三四年に現在の奈良県御所市茅原にある吉祥草寺きっしょうそうじにお生まれになった実在の人物です。
しかし記録は少なく、続日本紀、日本霊異記などに記されています。
19歳の時には、紀伊熊野から大峰へ駈け入り熊野より吉野までの七十五里の間に七十五の靡なびきを配当され、大峰山を修行の道場として開かれます。
そして斉明天皇四年(658)25歳の春、箕面山の瀧窟ににおいて龍樹菩薩りゅうじゅぼさつを拝し、灌頂最極の秘法を受け即身即佛の妙理を体得されたのです。
又、役行者はこの箕面に伽藍を建立し箕面寺(箕面山瀧安寺)と号し、観音、辨財天、龍樹菩薩を安置し恩徳を報謝されました
その後も役行者はさらに修行を続けられ、天智天皇十年(671)38歳の時、大峰連山の中間にあたる深山を峰中第一の霊地とされます。
そこで自らが龍樹菩薩から授かった灌頂最極の秘法を弟子義学に授け、修験最極の伝法道場とされたのです。
今でもこの秘法は「深仙灌頂」として本山である聖護院に伝わっています。
さらに山上ヶ岳山頂において、霊峰鎮護の威神となるべき仏の感得を祈念され、山上ヶ岳で蔵王権現と十五童子を感得、八童子を大峰に、七童子を葛城に配当され、法華経二十八品を配した葛城山を顕の峰とし、大峰山を密の峰となし、胎金両部の曼茶羅を大峰と葛城に作り上げたのです。
龍樹菩薩により役行者に秘法が伝えられた箕面の瀧窟は近年まで存在していたのですが、川のそばに道路が通り水の流れが変わったことから昭和三十年代の大水で惜しくも倒壊し、今は最深部の壁が残っているのみと言われています。
他にも箕面には役行者が錫杖で穿った穴であったり、師の言い伝えを守り丸い石を奉納する家が伝わるなど、今でも役行者の足跡が多く残ります。
また特筆すべきは、光格天皇から役行者への諡号勅書しごうちょくしょが本山の聖護院へ贈られている事でしょう。
光格天皇は役行者滅後一千百年の御遠忌に当る寛政十一年(1799) 正月二十五日に烏丸大納言を勅使として聖護院に派遣され、「神變大菩薩じんべんだいぼさつ」の徽号を追賜されました。
この勅書は全文光格天皇真筆の書であり、役行者さまを信奉する者にとっては第一の宝であると同時に、聖護院が役門正統である事が公式に認められていた事を表す貴重な資料でもあります。
これ以後役行者のことを「神変大菩薩」(じんべんだいぼさつ)とお呼びする事になるのです。
(当院HPより抜粋)
修験道のことは難しいですね。今日はこのへんで。
夕食までCDを聞きました。
確定申告も終了です。ちょっと還付です。(笑)
しばらくして夕食です。
今日の夕食です。
焼肉とサラダです。
焼肉の時々食べたくなります。
サラダです。
今日も美味しく頂きました。
鴨川のほとりで、でした。
それでは、ごきげんよう。