2023年1月1日 日曜日 晴れ

今朝の比叡山です。

朝食の白味噌のお雑煮を食べ、ゆっくり。

息子と嫁さんが来るまで炬燵でウトウトする。

10時前にやってきた。2番目の娘も来ました。

嫁さんがおめでたで、みんなでお祝いです。孫4人になります。

お祝いのケーキの写真を失念しました。

お昼はおせちでした。我が家はおせちはこれ一回です。

午後の比叡山です。

午後は、ダイナコのヒューズの交換です。

この段階ではOKでした。

C4に繋ぐと再度、ヒューズが飛びました。原因は? 考え中です。

今日もべリーニを聴きましょ。

ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。

新年は寺町通の丸太町からスタートです。

寺町丸太町の西南角に寺町通案内 の石碑があります。

商店街振興組合 寺町会

地下鉄東西線京都市役所前駅から寺町通りを北へ5分程歩いて頂くと二条通りに辿り着きます。その寺町通二条から 丸太町間にある商店街が商店街振興組合寺町会です。古くから商いを営む店や専門店としてのこだわりをもった店が東西に勢揃いです。是非お気軽にお立ち寄りください。(商店街振興組合寺町会HPより)

 

この石碑の向かいの東側に「横井小楠殉節地」の石碑があります。

 

横井小楠殉節地

〒604-0995 京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町

横井小楠(1809~69)は,熊本藩出身で江戸で朱子学を学んだが,安政の頃には開国論者となった。藩政改革に失敗するが福井藩に招かれ改革を指導した。藩主松平春嶽(1828~90)が政治総裁職につくとこれを助けて公武合体運動を推進した。失脚後帰国したが,新政府の参与として出仕した。明治2(1869)年正月5日,御所参賀の帰途この地で暗殺された。この石標は横井小楠が襲撃された地を示すものである。
 なお南面に「昭和七年七月再建之」と記すことについては『京都市教育会沿革略』(1932年同会刊)には大正5年の事業として「横井小楠邸址(寺町丸太町下る)」ほかの「史蹟保存石標」を建立したと記す。これに従えば本石標は大正5年建立の石標が損壊し,昭和7年に新しく再建されたものである。

建立年    1932年 建立者    京都市教育会
寸 法    高120×幅19×奥行19cm
碑 文    
[東] 横井小楠殉節地
[南]   下村大丸寄附 昭和七年七月再建之
[西] 横井小楠殉節地
[北]   寄附者   横川松之助 大澤徳太郎   山本臨乗   上田ソノ 

       京都市教育会

(京都市)

暗殺について:
明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側で十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った。(出典:ウキペディア)

十津川屋敷は新烏丸通下切通にあり、横井小楠邸とはすぐ近くでした。

今日はこのへんで。

しばらくして、夕食です。

今日は、長男、2番目の娘夫婦と孫、妻の母と私たち夫婦の7人ですき焼きです。

京都のすき焼きは割り下使いません。砂糖と醤油で焼きます。

今日も美味しく頂きました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。