2022年10月12日 水曜日 曇り

今朝の比叡山です。

朝食を済ませ、ゆっくり。

午前中は、北野白梅町迄自転車で行きます。月に一度の散髪です。45年間同じ人です。(笑)

散髪も終わり、いつものように山田フライ専門店に立ち寄る。生のコロッケを買って帰る。

帰宅して、お昼を済ませ、ちょっと昼寝です。

午後の比叡山です。

寒暖差か体がシャンとしない。

午後は、CDでも聴いましょ。

Altec 1592B+1593Bで元気な音楽をききましょ。

クルセイダースです。

ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。

先日の在原業平邸址の石碑のある御池通の間之町通から西へ三筋行くと烏丸通です。烏丸御池から50mほど北に行った東側の歩道に「梅田雲浜邸址碑」があります。

 

梅田雲浜邸址碑

〒604-0845 京都市中京区烏丸通御池上二条殿町 東側

梅田雲浜(1815~59)は,若狭国小浜藩士で,上洛し私塾望楠軒講主に迎えられた。ペリー来航の対外関係緊迫化で政治的発言を始め,士籍を削られ浪人学者となった。京都で志士の指導者であったことから,安政大獄が始まると真っ先に捕えられ,その獄中で病死した。この石標は雲浜の宅跡を示すものである。
建立年    1916年  建立者    京都市教育会
寸 法    高116×幅18×奥行18cm
碑 文    
[西] 梅田雲濱邸址
[北] 大正五年九月建之   京都市教育会

(京都市)

NT都ビルと和牛登録協会のビルの前にあります。

実業家としての側面
幕末志士というと身分の低い貧乏侍というイメージがつきまとう。雲浜も上京後、講師の仕事があるといえど赤貧洗うがごとくで、藩籍剥奪の後は同志へあてて「大困窮進退是れ谷(きわ)まり、一歩も動き候事も出来がたく候」と旅費の工面を求める手紙を書いたほどであった。しかし安政3年に始めた長州大和間を始めとする物産交易の仲介によって財をなし、安政の大獄の時期には京都経済の中心地にほど近い烏丸御池に居を構えており「暮し向き裕かで、訪客絶えず」と評されるほど成功した[2]。それほどの転身を果たしつつも最期まで志士達の中心に在り続け、またその経済基盤および長州とのつながりを最大限に活用し、尊皇攘夷の運動を推し進めまた多くの志士を経済的に支援した。
辞世の歌: 君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

(出典:ウキペディア)

今日はこのへんで。

しばらくして、夕食です。

 

今日の夕食です。

コロッケ、サラダ、白菜の炊いたんです。

山田フライ専門店で生を買って家で揚げています。

ビーフ、カレー、カニクリームです。美味しい。

サラダと白菜の炊いたんです。

今日も美味しく頂きました

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。