2022年9月12日 月曜日 晴れ

今朝の比叡山です。

今日も暑いらしい。

午前中は、人間ドックで朝食は抜きです。(;´д`)トホホ

妻と一緒に病院へ。

いつもながらに胃カメラはテンション下がります。⤵

今の胃カメラは饂飩ほどの太さなんで、平気なんですが、いやです。25年ほど毎年やってても嫌いなものは嫌いです。好きな人はいませんよね。大腸カメラよりいい。

朝食抜いてるので、帰宅途中に、進々堂でパンとおやつを一杯買う。

帰宅して、お昼です。お腹減りすぎて、パンとおやつの写真は失念。(笑)

お昼を済ませ、ちょっと昼寝です。

午後の比叡山です。

午後は、レコード聴きましょ。今日も35℃らしい。

C28+JBL SE401です。

JBL D130+蜂の巣+ピラミッド・ツイーターです。

ヤマハのプレイヤーにSHURE V15Ⅲです。

ベイシーです。

エリントンです。

ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。

今日も本能寺です。本能寺の山門を進むと本堂が見えてきます。

 

本能寺 本堂

〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 

 本能寺は、天正十五年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いですが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は 灰燼に帰しました。その後、豊臣秀吉の都市計画により天正十七年1589)、現在の地に移転再建しましたが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和三年(1928)に再建されたものです。

 工学博士天沼俊一先生の設計で、室町時代の枠を集めた木造大建築です。7間7面単層入母屋造本瓦葺、総建坪587.4㎡(178坪)の総けやき材で創立当時の面影を残します。

「朝鮮通信使ゆかりの地」の駒札(山門の南側にあります)

 1719(享保4)年、徳川吉宗の八代将軍襲職を祝賀する目的で、江戸時代に入って九度目の朝鮮使節(通信使)475名位が来日した。このうち大坂どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に同年9月12日に淀から鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊した。通信使の正使らは本堂に泊まり、塔頭の蓮承院は上官、吉祥院は通訳官、本行院は五山僧などが利用した。その間、貫首以下の一山の僧侶たちは一時他寺などへ立ち退いたことが当時の記録である「両山歴譜」に記されている。この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の令による饗宴の席が設けれれた。このとき通信使の随員であった製述官(公文書など作成)・申維翰(シンユハン)が著した見聞記「海游録」では本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べている。江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在した。

 また護衛役の対馬藩主宋氏の一行やその他の護衛の日本人たちは本寺の周辺の寺院や民家にも分宿した。

(出典:現地駒札より)

今日は、このへんで。

しばらくして、夕食です。

 

今日の夕食です。

ハンバーグとサラダです。

ハンバーグとマッシュポテトに目玉焼き載せです。美味しい。

サラダです。

今日も美味しく頂きました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。