2021年12月13日 月曜日 今朝はかなり寒い。

今朝の比叡山です。

北の空に虹が出ています。

朝食を済ませ、ゆっくり。

今日は寒いんで、お家でレコードでも聴きましょ。

Altec 412C+テレフンケンのホーンです。

Dual1219とC26です。

Dynaco Stereo70です。

ドルフィーと5スポットでやってる人です。

Dualは楽です。(笑)

次は、綺麗なお姉さんジャケットシリーズです。

お昼をすませ、ちょっと昼寝です。

午後の比叡山です。時雨ています。

午後はヴォーカルでも。

サラは好きです。

こちらもいいです。

フリージャズも死語ですか? チック・コリアとサークルを組んでいた。

この後、CDでクラッシクを聴きました。ヴィヴァルディの四季です。

この組み合わせはクラッシクも十分聞けます。

ちょよこのへんで洛中散歩の続きでも。

先日の白山神社から押小路通を東へ進み寺町通を30mほど上がった東側に京都市役所の寺町の入口があります。そこに「間部詮勝寓居跡・妙満寺跡」の駒札と石碑があります。

 

間部詮勝寓居跡・妙満寺跡

〒604-0931 京都市中京区寺町通押小路上ル榎木町(東側)

チョッとした休憩スペースになってます。

北の端に駒札と石碑があります。

石碑です。

石碑:

 間部詮勝(1802~84)は越前鯖江藩主で,寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任して老中となった。水野忠邦(1794~1851)と合わず引退するが,井伊直弼(1815~60)により再度老中に登用され,将軍後継問題・安政五カ国条約締結などにあたる一方尊王攘夷派を弾圧した。安政5(1858)年9月,幕府が調印した日米修好通商条約に激怒した孝明天皇(1831~66)を説得するため上京し,寺町通二条下るにあった妙満寺に滞在した。この石標は間部詮勝が滞在した妙満寺の跡を示すものである。妙満寺は昭和42年に岩倉に移転した。

建立年    1968年
建立者    京都市
寸 法    高111×幅18×奥行18cm
碑 文    
[西] 間部詮勝寓居跡
[北] 昭和四十三年十一月   京都市

駒札です。

駒札:

間部詮勝寓居跡(まなべ あきかつ ぐうきょあと)

 この地には、昭和43年(1968)まで、約400年にわたり顕本(けんぽん)法華宗の本山・妙満(みょうまん)寺があった。

 現在は岩倉幡枝に移転した同寺に、安政5年(1858)、幕府の老中・越前鯖江(現在の福井県)藩主間部詮勝が滞在し、安政の大獄と呼ばれる志士の弾圧を指揮したという。

 井伊直弼(なおすけ)が大老となり、勅許(ちょっきょ)を受けずに日米修好通商条約に調印したことで、尊王攘夷(そんのうじょうい)派などの反対が高まると、井伊大老は詮勝をきょうとに送り、朝廷との交渉に当らせるとともに、志士の弾圧にのりだした。

 詮勝は、安政5年(1858)9月京都に入り、翌年3月まで滞在、朝廷、公家と交渉する一方、町奉行所を指揮して、梅田雲浜(うめだうんびん)ら志士を次々逮捕した。

 後に詮勝は井伊大老と意見があわず、老中を罷免された上、処罰をうけた。

                          京都市

今日はこのへんで。

今日の夕食です。

南瓜のスープ、ハンバーグ、サラダです。

南瓜のポタージュは、甘みがあって美味しい。

妻のハンバーグは美味しいです。人参のグラッセ、マッシュポテト添えです。

サラダです。

今日も美味しくいただきました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。