2021年6月16日 水曜日 今朝も雨です。 今日は最高気温が24℃らしい。

今朝の比叡山です。見えません。

朝食をすませ、ゆっくり。

レコードを聴きながら、オーディオの組み換えと掃除です。

まずは、50年代のジャズでも。結局、ジャズはこのへんが一番好きです。

ソニー。ロリンズとバーニー・ケッセルです。

スピーカーのコードを半田付け。DENONのプレーヤーです。

最近の人はデノンといいます。私はデンオンです。電音はコロンビアレコードと関係が深い会社です。

お昼をすませ、ちょっと昼寝です。懐かしのシンガー・ソングライターです。死後ですな。

ジェームズ・テイラーとニール・ヤングです。50年たってもどちらも現役で頑張ってます。すごいですね。

明日からこのアルテックのバイフレックスを組み立てます。

長期間温存してました。包装資材のごみの処理です。山の神は怖いですからね。

ちょっとこのへんで、昨日の続きです。

大学寮跡の案内板から押小路通を東へ進むと千本通との交差点の東北角に「西町奉行所跡」の石碑があります。

西町奉行所跡

〒604-8382 京都市中京区西ノ京北聖町(押小路千本東北角)

この現中京中学校付近、千本通押小路東入ル北側一帯は、江戸時代に、西町奉行所(ぶぎょうしょ)があった所である。この奉行所は奉行のもとに与力(よりき)、同心(どうしん)と呼ばれる職員をもち、京都の市政一般、すなわち行政、司法、警察全般を担当し、さらに畿内幕府領の租税徴収や寺社領の訴訟処理にも当たった幕府の役所で、東町奉行所(現壬生電話局付近)と各月交代で任についた。しかし両奉行所それぞれ与力20騎、同心50人で職員の数は少なく、各町の自治組織を利用して市政に当たった。 京都町奉行がはじめておかれたのは慶長5年(1600)、寛文8年(1668)からは常置の職となって幕末にいたった。

(京都市)

石碑です。

寛文8(1668)年京都町奉行が創設され,代官奉行(上方郡代)・京都所司代から司法・行政の権限を引き継いだ。町奉行所は東西2か所に設置され,隔月交代で任務を担当した。西町奉行所は二条城西側の千本通沿に建てられた。この石標はその跡を示すものである。


 建立年:1968年  建立者:京都市  寸 法: 高111×幅18×奥行18cm
 碑 文    [西] :西町奉行所跡    [北] :昭和四十三年十一月 京都市

 

 京都西町奉行所は、安政の大獄での弾圧を職務として行っており、その報復として天誅が行われ、奉行所雇いの目明し「猿の文吉」が襲われ、指示を出していた島田左近も殺されました。この事態に両町奉行所は、大獄に関わった西町奉行所与力渡辺金三郎と、同心上田助之丞、東町奉行所同心森孫六、大河原十蔵を江戸へ避難させますが、4人は京都を出て石部宿に宿泊していたところを、30人以上の集団に襲われて惨殺されてしまいます。
 与力、同心の殺害は奉行所や、その上位機関である所司代の権威失墜であり、事態を重くみた幕府は、京都守護職の設置を検討するに至りました。(出典:試撃行HP)

又、この辺り、すなわち、京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外は、平岡 円四郎 遭難の地でもあります。
 平岡 円四郎は、幕末期・一橋家の家臣で、徳川 慶喜の信任が厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務し、同年5月には、一橋家家老並に任命された。同年、6月2日、徳川 慶喜の請願で大夫となり近江守に叙任された。
 同年、6月14日、在京の水戸藩士・江幡 広光(えばた ひろみつ)、林 忠五郎らに京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外で暗殺されます。江幡は、一橋家使役家・川村 恵十郎(負傷)により闘死、林は、重傷を負った後、自害したと云われています。

(出典:資料の京都史蹟散策HP)

京都も当時は物騒ですな―。 今日はこのへんで。

夕食までCDでシューマンを聴きました。今日はQUAD77でLS3/5aを聴きましょう。QUAD77は人気がありません。


今日の夕食です。

唐揚げとサラダです。

鶏もも肉の唐揚げと茄子の田楽です。美味しいですよ。

アスパラ、大宮トマト、パプリカ、胡瓜、紫玉葱のサラダです。

御陰様で6か月で3キロのダイエットです。

今日も美味しくいただきました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。