2021年5月26日 水曜日 今日は曇りです。

今日は寝坊して起きたら10時でした。

今朝の比叡山です。

朝食をすませ、ネットで調べもの。

お昼をすませ、自転車で烏丸竹屋町の「欧風堂」へケーキを買いに行く。

 

欧風堂

〒604-0865 京都市中京区 烏丸西入ル亀屋町150

電話:075-221-2022

老舗のケーキ屋さんです。

京都の上の人間には新町通今宮にあった平川風月堂が馴染みでしたが、昨年閉店しました。この欧風堂も同じような昔からのケーキ屋さんです。

ワッフル、レモンケーキ、バームクーヘンと焼き菓子が定番です。

中に入ります。東側の焼き菓子のコーナーです。

正面のケーキのショーケースです。前の女性が大量の買ったはります。

プレセントかお使いもんでしょうか?

迷いましたがクラッシクショコラにしました。3つ買って残りが1個です。

1つ380円でした。これは、お安いですね。

ヴィターメールやピエール・エルメなら倍ほどします。

帰宅し、ゆっくりする。

おやつの息子が作った自家製のポップコーンです。塩味です。

それでは、このへんで昨日の続きです。

平安宮 凝華舎(梅壺)・飛香舎(藤壺)跡の案内板から少し上がると出水通です。これを東へ進み次の南北の通り浄福寺通を超えてすぐの南側に「平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡」の案内版があります。

平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡

〒602-8177 京都市上京区出水通,浄福寺東入田村備前町238-1

注意:以前は北側の内田蠟燭店さんの前にあったようですが移動しています。

現在は、「体験工房 雄彩」という念珠の房を作る工房の前にあります。

くらた製紐の表札もあります。出水通、下立売通近辺は製紐や組紐屋さんが多いです。

案内板です。

案内板:

 内裏の後宮七殿五舎の一つで。庭にある桐木から桐壺とも呼ばれた。南北二宇並び、南の正舎は東西五間、南北二間の母屋の四方に庇、東には孫庇があって南・北・西には簀子がめぐる。内裏内郭の東北角にあって清涼殿からもっとも離れており、后としての身分の低さを表す。『源氏物語』で桐壺更衣の居場所をここに想定していることがその証である。その子、

光源氏がここに住み、宿直の時に「雨夜の品定め」の舞台ともなり(「帚木」)、また明石姫君もここに住んだ。

 歴史上で淑景舎女御と呼ばれた人に三条天皇女御の藤原原子(道隆の娘で一条天皇中宮定子の妹)がいる。近年の発掘調査で平安時代中期の土坑(土器溜め)を検出し、土器や瓦が出土した。

                                 平成20年3月  京都市

比較的身分が低い桐壺の部屋は七殿五舎のうち、最も遠い位置にある淑景舎(桐壺)です。
そして、この淑景舎と清涼殿を行き来するには清涼殿の真ん前にある[弘徽殿] のすぐ前を通過する必要があり、これがネックでした。昼は帝が淑景舎にわたり、夜は桐壺が呼ばれて渡ってくるのを弘徽殿はずっと見ててブチ切れたわけです(笑)。

 

おまけです。

第1帖 桐壺(きりつぼ) 光源氏1-12歳の物語
身分がそれほど高くない桐壺(きりつぼ)は、時のミカドの桐壺帝(きりつぼてい)から寵愛されて男の子を産みますが、右大臣の娘で皇太子の母である弘徽殿(こきでん)など桐壺帝の他の妻達からイジメを受け心労で死んでしまいます。悲しみに明け暮れる桐壺帝でしたが、その後、桐壺にそっくりの藤壺(ふじつぼ)と出逢って彼女を寵愛するようになります。さて、桐壺が生んだ男の子もまた、母似の藤壺にオマセにも想いを寄せますが、12歳で元服して桐壺帝から源氏という姓をもらうと、左大臣と桐壺帝の妹の大宮(おおみや)の間にできた娘の葵の上(あおいのうえ)と愛のない政略結婚をさせられてしまいます。この男の子はその光り輝く美貌から光源氏(ひかるげんじ)と呼ばれました。
 補足:当時の天皇家、貴族の間では一夫多妻の通い婚が普通でした。また、源氏という姓をもらうことは、天皇家を出て臣下になることを意味します。「源」という姓は天皇から直接分かれたミナモトであることを意味する姓です。例えば、村上天皇の子孫の源氏は村上源氏、清和天皇の子孫の源氏は清和源氏といいます。(出典:西陣に住んでいますHP)

今日は、このへんで。

 

今日の夕食です。

豚肉の生姜焼き、椎茸のエスカルゴ・バター、お揚げさんのお味噌汁です。

豚の生姜焼きは私のリクエストです。時々食べたくなるやつです。

椎茸のエスカルゴ・バター焼きとお揚げさんのお味噌汁です。

デザートは、欧風堂のクラッシク・ショコラです。

ガトー・ショコラです。美味しですよ。お値打ちですね。

今日も美味しくいただきました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。