2020年7月6日 月曜日 昨夜もよう雨降ってたな―。 今日も雨。

 九州は大変なことになってるなー。京都も数年に一度、紙屋川上流で洪水が起きる。嵐山の桂川の氾濫は前回が初めて見た。子供の頃に、大宮上立売あたりが水ついたのを覚えている。旧大宮川が暗渠になっているらしい。その後、大きな菅を入れたはったなー。子供の私の背丈より大きかった。積んである管でかくれんぼなんかしてたな。

 さて以前に6月2日のブログで、本能寺の変について触れました。今日はその後です。

寺町通の今出川と上御霊前通の丁度真ん中あたりに「阿弥陀寺」があります。浄土宗の寺院で山号は蓮台山。院号は総見院。本尊は阿弥陀如来。ここに「信長の墓」があります。

中はこんな感じです。

さらに奥へ進みます。渡り廊下と案内板。

織田信長と信忠のお墓です。

織田信長:享年48歳  織田信忠:享年25歳 です。

討死集墓所が気になりませんか? 実は、森蘭丸と二兄弟のお墓もあります。

 森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代の武将です。森 蘭丸(もり らんまる)という名で知られる織田信長の近習です。本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死しました。若いですね。

森蘭丸(森成利):享年17歳、森坊丸(森 長隆):享年16歳、森力丸(森長氏):享年15歳

 墓所を奥に進むと清玉上人のお墓があります。

天正10年(1582年)、信長が本能寺で討たれると、清玉上人が自ら現地に赴いて信長の遺灰を持ち帰って、墓を築いたとされる。後に信忠の遺骨も、二条御新造より拾い集めて、その横に墓をなした。さらに本能寺の変の名の分からぬ犠牲者大勢も、阿弥陀寺に葬って供養したという。

お寺の梵鐘と門です。

 この阿弥陀寺の向かいの通りを入ると、御鎌餅とでっち羊羹で有名な「大黒屋鎌餅本舗」があります。おじちゃんとおばあちゃんがやったはります。あっさり上品な味ですよ。

 

 一息ついたところで、「京都宗教戦争~仁義なき戦い」です。

勢力争いに明け暮れる社寺仏閣
 守護大名が群雄割拠した戦国時代、寺社勢力も軍事・行政・経済分野に大きな力を持つていたといいます。特に比叡山延暦寺のような大寺院は、広大な寺領による経済力を背景に、政治権力に物申す場面が数多くありました。多数の僧兵を抱え、自分たちの要求を押し通すためには、神輿を担いで強訴に打って出ることもたびたびでした。一方、法華宗(日蓮宗)のように、「我々の教えが正しく、他はすべて間違いだ」と主張し、他派を論破して法華宗に改宗させることに強い使命感を持つ寺社勢力もありました。いきおい、宗派間の対立は激しいものとなり、血で血を洗う争いに発展しました。

①山科本願寺合戦 1532年

 天文元年(1532年)8月、京都の法華宗(日蓮宗)徒が近江の守護大名・六角定頼と結託して、山科本願寺を攻撃し、本願寺境内を一宇(一軒)も残さず焼き討ちしました。この事件ののち、本願寺は山科から石山(大坂)に移ることとなります。

②天文法華の乱 1536年

 その4年後の天文5年(1536年)、こんどは比叡山僧兵と六角近江衆が京の街に乱入し、京都法華宗の21本山を焼き討ちし、洛内のあちらこちらに放火しました。下京区域は完全に焼失し、上京区域も三分の一が焼失したといいます。これは、もはや事件ではなく戦争でした。

 この戦いの動機は、「縄張り争い」だったといいます。つまり、京都は我々の縄張りだと思っていた比叡山延暦寺に対して、法華宗徒が断りもなしに布教活動を活発化させ、特に下京区域の商工業者の信仰を集めていったことが、比叡山側の癇にさわったというのです。「俺たちの縄張りを勝手に荒らす輩は、実力で叩き潰せ」といったところでしょうか。
③比叡山焼き討ち 1571年

 Ⓐ戦略的な意味

 信長が比叡山を焼き討ちしたのは、浅井・朝倉連合軍に味方したことへの単なる復讐ではなく、戦略的な意味がありました。信長は、比叡山の地理的の戦略的価値を理解していました。東に琵琶湖を望み、北国街道が越前から直江津に通じています。西側に若狭街道(八瀬から敦賀に通じる)が走り、京の街は西南に位置しています。また、山上には500以上の堂塔があり、数万人の兵を配備することが可能といわれます。京を攻めるにも、東から攻めてくる敵を迎え撃つ防衛基地としても、重要な拠点となります。信長は、比叡山が反信長の姿勢を変えないのならば、この地を焼き尽くして戦略的価値をなくすことを考え実行したのだと思われます。

 Ⓑ堕落した中世的権威への鉄槌

 信長が比叡山を徹底的に焼き討ちしたもう一つの理由は、堕落した中世的権威へ鉄槌を下すためでした。修行をおろそかにし神仏への奉仕の心を忘れ、圧倒的な武力を背景に強訴などで自分たちの要求を強引に通そうとする姿に幻滅した信長は、そのベールをはがし、堕落した中世的権威の象徴である寺社勢力を焼き討ちし、本来あるべき姿に戻そうとしたのではないかと思います。本来あるべき姿とは、日々修行を積み、神仏を護り、迷える信者に救いの手を差し伸べる宗教本来の営みです。信長は、比叡山焼き討ち後に天台宗禁教令を出したわけでもなく、全国にある末寺の信者に弾圧を加えたわけでもありません。信長は、宗派の存続や布教活動は認めています。

④上京焼き討ち 1573年

 当時の上京は,国内絹製品のほとんどを生産する西陣を擁するなど,最も富貴な人々の居住地とされていた。信長は,上洛の翌年,室町勘解由小路(現在の室町下立売付近)に将軍義昭のための新たな邸宅造営に着手し,その協力を上京に課したのである。この新第建築は驚異的な速さで進められ,「武家御所」「公方之御城」などと呼ばれた壮大な邸宅が僅か70日にして完成した。

 信長は,上京の富豪に対する「唐物名物」の強制買い上げ,いわゆる名物狩りも行った。天下の名物を強制的に出させたのである。しかし,富裕を自認する上京衆は明らかな反信長行動を取った。激怒した信長は,将軍義昭との間の不和を理由に,京中焼打ちという威嚇に出た。上京,下京の住民は信長に銀を贈り焼打ちを逃れようと努めるが,上京のみは聞き入れられず,元亀4年(1573)4月,焼打ちされ,焼失家屋6000~7000軒という被害を受けた。

⑤安土宗論 1579年

 安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも称される。法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされました。

 当時法華宗の激しい折伏伝道の布教は、一個の強力な社会勢力として、天下統一を目指す信長にとって無視できない存在でありました。そこで仕掛けたのが「安土宗論」なのですが、実際に残っている資料からは、富裕な町衆を信徒に持っていた日蓮宗から、軍資金を捻出させようと狙った事件かもしれないとのことだそうです。いずれにしろ、その後も京都にある法華宗寺院を排斥せず、信長が「本能寺の変」で打たれるまで、法華宗寺院を定宿にしていたのは、敵視していなかったあらわれだと伺い知ることができます。

⑥本能寺の変 1582年

 早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃。これにより織田政権の中心人物が失われ、6月13日の山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉が豊臣政権を構築していく契機となった。

当時の本能寺、妙覚寺、二条御新造の位置関係図です。

⑦信長の宗教観

 信長の基本的な考え方は、「神や仏を信仰して救いを求めることは自由であり、信者を導く僧侶たるものは、経済的利益や俗世の快楽に溺れることなく修行に励むべきだ。ましてや、自分らの利益のために政治に介入し、武力をもってその要求を押し通そうとするなど言語道断だ。」ということでしょう。信長は信仰の自由は最大限尊重していました。ポルトガル人宣教師が京でキリスト教の布教活動を願い出たときも、これを快く許しています。安土では、セミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関=小神学校)の建設までも許可しています。

⑧麒麟が来る! ラガーじゃないよ!

 江戸時代初期の政治家であり朱子学者である新井白石は、「長く僧徒の兇悪を除いた功労は天下一」と信長を評価しています。唯一の神を絶対のものとするキリスト教やイスラム教と「あらゆるものに神が宿る」という思想がベースにある日本人の宗教観とは違うのかもしれませんが、その日本においても、中世社会では宗教が政治にちょっかいを出していたのは事実です。信長の徹底的な弾圧によって政教分離がはかられたとしたら、我々現代人は、信長に大いに感謝しなければならないのかもしれません。最近の調査で、信長はバテレンの布教の見返りに武器弾薬を購入していた事実もあります。この辺のことに光秀謀反の真相がありそうな気がしています。

今日の比叡山は見えません。

今日の夕食です。

わかめのお味噌汁、胡瓜とお雑魚と茗荷の酢の物、鯖の塩焼きレモン添え、茄子の挽肉詰めの揚げ浸し

今日も美味しくいただきました。

鴨川のほとりで、でした。

それでは、ごきげんよう。