2024年10月5日 土曜日 晴れ
今朝の比叡山です。
やっと秋らしい天気です。
朝食を済ませ、ゆっくり。
いつものようにスーパーへ食料の調達です。
値上げの秋です。野菜の高いのが気になります。明日2番目の娘の3歳半の孫が初めてのお泊りに来ます。孫の好きそうなものを買いましょ。(笑)
私はメタボと言われた人間ドック以降3週間プチダイエットです。おやつを立っています。ちょっと痩せました。
帰宅してお昼を済ませ、ちょっと昼寝です。
午後の比叡山です。
午後はレコードプレイヤーの補修とテストです。
BSRの割れていたカバーも取り付けました。
カートリッジのテストです。
ソニー・クリスです。
ケニー・ドリューです。
メル・トーメです。
ちょっと暑くなってきたので、雨のかからないベランダとトップライトの植物に水遣りです。
ちょっとこのへんで洛中散歩の続きでも。
みやこめっせの紹介は昨日で終わりましたが、岡崎界隈のお話でも。
明治になって東京遷都、京都のも活気がなくなります。
明治政府は国内産業の発展を促進するため、「内国勧業博覧会」の開催に力を注ぎました。 1877年(明治10年)の東京上野にはじまり、1895年(明治28年)には「第四回内国勧業博覧会」が京都・岡崎で開催されました。
これは1893年(明治26年)ごろの岡崎地域の写真です。
現在の平安神宮あたりから南禅寺とウェスティン都ホテル京都方面をの臨んだところらしいです。今の蹴上方面です(平安神宮所蔵)。
130年前は岡崎も田舎の日本の原風景でした。当時の岡崎は聖護院大根や聖護院かぶらといった京野菜などを生み出す農地でした。
「第四回内国勧業博覧会」が京都・岡崎で開催に合わせ、広大なこの地に、美術館や動物館、工業館、農林館、器械館、水産館、各府県の売店、飲食店などが建てられました。 出品点数は16万9000点におよび、4か月の期間中に113万人の入場者を迎える盛況ぶりとなりました。
1895年(明治28年)の第四回内国勧業博覧会です。
(京都府立京都学・歴彩館寄託 石井行昌撮影写真資料)
開催にあわせて、日本最初の市街電車が走り、七条停車場(京都駅)から博覧会場への足となりました。博覧会の開催は、京都の経済・文化の発展に大きな役割を果たしました。
「第四回内国勧業博覧会」で建設された美術館の建物を、1911年 (明治44年)、現京都市京セラ美術館の敷地に移転したものが、「第一勧業館」です。これが京都市勧業館の前身となります。
1913年(大正2年)には、現在みやこめっせが建つ場所に「第二勧業館 北館」が、翌翌年には「南館」が建設されました。
1913年(大正2年)8月に建設された「第二勧業館北館」です。
(京都府立京都学・歴彩館 旧一号書庫写真資料)
京都市勧業館の誕生(昭和時代)
時代は昭和に移り、「第一勧業館」は「大礼記念京都美術館」(後の「京都市京セラ美術館」)建設のため1931年(昭和6年)に撤去されました。さらに3年後、京阪神地方に甚大な被害をもたらした室戸台風によって「第二勧業館」は倒壊してしまいます。
その後1937年(昭和12年)に、市民の協力を得て再建されたのが「京都市勧業館」です。和装を中心とする伝統産業の展示見本市やイベントブームによる催事、文化活動、福祉活動など多様な催事が開催され、「岡崎の勧業館」として広く市民に親しまれました。エントランスにあった印象的な「花時計」の姿を、京都に長くお住いの方は覚えてくださっているのではないでしょうか。
勧業館といえばこの「花時計」です。
子どもの頃は市電の花電車も走っていました。
京都市勧業館みやこめっせの誕生(平成時代から現在)
現在の「京都市勧業館みやこめっせ」は、平安建都1200年記念事業の一環として、1996年(平成8年)に開館しました。年間100万人の来場者を迎え、様々なイベントに人々が集うハレの場として親しまれています。
1996年 開館当初のみやこめっせです。
(出典:みやこめっせHP)
京都も洛中以外は殆ど田んぼや畑だったんです。平安神宮を始め、神社は明治なって作られたものも恰好多いんです。今日はこのへんで。
しばらくして夕食です。
今日の夕食です。
ローストチキンとサラダです。
ローストチキンです。やっぱり骨付きが美味しい。
サラダです。
今日も美味しくいただきました。
鴨川のほとりで、でした。
それでは、ごきげんよう。