「アメリカ独立リーグまでの野球人生」の最後に、
私の16年間の野球人生を簡単に振り返ってみたいと思う。

まず丈夫な体に生んでもらった母親、
野球を教えてくれた父親、
野球を続けさせてもらった両親に感謝。
そして、宮井勝成監督、畑俊二監督をはじめ、お世話になった恩師、先輩、チームメイト、後輩には心から感謝したい。
私の野球人生のスタートであった少年野球の広ワールドジュニアで、下半身強化を中心にご指導いただいた天国にいらっしゃる故・金澤秀彦会長にも感謝したい。

少年野球・広ワールドジュニア時代。
5年生で二塁手のレギュラーになり、
6年生でエースになったが、
大会では1度も優勝することが出来なかった。

白岳中学校時代。
3年生でエースになったが、
市の大会で優勝する事が出来なかった。

広高校時代。
1年生秋にエースナンバーをもらい、
県大会で勝利し、強豪校に善戦した。
最上級生になった秋と春の地区リーグ戦では
どちらも全勝で優勝し、春の県大会では、
準々決勝まで進出した。
夏の大会前、マスコミに多く取り上げられたが、
初戦で広島商に破れた。
甲子園は遠い夢に終わった。

中央大学時代。
1年生秋からリーグ戦のメンバーに入った。
3年生春からは、リーグ戦に先発投手として
出場し、4年生ではリーグ戦の開幕投手も
務めたが、リーグ優勝、大学日本一という
目標には及ばなかった。
アメリカ遠征、高知キャンプ、4年間の寮生活など
多くを経験した。

社会人野球・シダックス時代。
1年目から登板させてもらったが右肘を痛めた。
秋には人生初めての全国大会・社会人野球日本選手権大会に出場、2年目には悲願の都市対抗野球大会にも出場した。
2年間キューバ人監督の下、
1ヶ月間のキューバキャンプを経験、
五輪直前のキューバナショナルチーム
とも対戦した。

トライアウト時代。
アメリカで野球をするため、
必死になってトレーニングを続けた。
辛い日も多かったがアメリカで野球が
したいと思った以上、絶対に叶えてみせる
という強い気持ちがあった。
ヤクルトスワローズ秋季キャンプでの
入団テスト、シアトルマリナーズなどの
トライアウトも受けた。

米独立リーグ・ジョンズタウンジョニーズ時代。
プロ契約をして単身渡米した。
これまでの野球人生で一番熾烈な争いだった
開幕前のキャンプを乗り越えて、
開幕前のキャンプを乗り越えて、
シーズン開幕戦では勝利投手になった。
その後、先発でも勝ち星を挙げたが、
右肘痛が再発して後半戦は思うように
投げられない日々が続き、シーズン後に引退した。
投げられない日々が続き、シーズン後に引退した。
私の実力は大したことではないが、私の野球人生においての貴重な経験と、素晴らしい方々との出会いが私にとっては最大の財産である。
そんな方々をこのブログで紹介してきたが、その方々のお陰や支えがあって、何とか野球を続ける事が出来た事を心から感謝している。
皆様、本当に有難うございました。
いつの日か私が野球の指導者となった時には、私がお世話になった方々の話、私が教わった様々な事、野球を通じて体験した事、野球を通じて勉強した事、野球の楽しさ・素晴らしさなどを野球を志す後輩たちに伝えていけたら幸いである。

私がアメリカ独立リーグまで投手としてプレーした「真っ向勝負」の野球人生は、何事にも代えがたい、とても素晴らしいものだったと胸を張って言える。

そして、いつか私の息子が野球を始めた時には、
私の知っている範囲では野球を教えるが、
その前に野球に取り組む姿勢、野球の素晴らしさ、
野球を通じて教わった技術以外の事をまず最初に
教えていきたいと思っている。

最後に、ここまで私の拙い野球人生のブログを
読んでくださった方々には心を込めて厚く御礼を
申し上げたいと思います。
私の野球人生の振り返りは以上ですが、
私には夢があります・・・。
これからも我が子の成長と野球に関して、
私の思う事などを書いていきたいと思っておりますので、
私には夢があります・・・。
これからも我が子の成長と野球に関して、
私の思う事などを書いていきたいと思っておりますので、
今後ともよろしくお願いいたします。
2011年(平成23年)3月31日
HKS13 金本浩司