アッカの幼稚園で発表会がありました。


アッカのクラス(にじ組)は、「桃太郎-にじ組バージョン-」という劇をやるのだそうで、事前にアッカにどんな役をやるのか聞いたところ、


 アッカはイノシシをやるんだよ


との返事が返ってきました。


 へっ?イノシシ?何それ?


と、劇の詳細を聞くと、なんとにじ組バージョンの「桃太郎」には、サルが登場せず、替わりにイノシシが登場するのだそうです。理由は、サル役をみんながやりたがらなかったとの事で、因みに同じ理由でお爺さんも登場しません。


それにしても、サルが嫌で、何でイノシシは良いのか?お婆さんは良くて何でお爺さんは嫌なのか?


マッタク、ガキンチョの考える事は分かりません。


しかし、いくら子供の希望だからと言って、それを原作を無視してまで全部呑んじゃう指導方もいかがなものかと...。


また、劇の内容自体も、所々にギャグやオリジナルの演出を入れるなど、幼稚園児の演劇にしては結構上手に仕上げてはおりましたが、桃太郎たちが鬼ヶ島に乗り込んで、悪い鬼たち相手に派手に立ち回りを演じておきながら、実は鬼は本当は悪者ではなく、村人と仲良くしたかったのに、みんなの偏見から除け者にされた事に拗ねて、乱暴を働いていたことが分かり、最後はみんなが仲良くなってしまうという実に安っぽいお芝居になっておりました。


幼稚園児のお芝居に、何をいきり立っているんだとお笑いの向きもあるでしょうが、私はこういう偽善は嫌いです。


じゃあ、桃太郎は何のために一念発起して鬼退治に向かったのでしょうか。これでは桃太郎がヒーローではなくなってしまいます。


最近は、「桃太郎」もそうですが、「7匹の子ヤギ」のように、敵役は最後に殺されてしまうはずのお話なのに、幼稚園などの発表会では無理やりハッピーエンドにしてしまう例が結構多いようです。


そう言えば、狼と羊が友達になっちゃうようなアニメ映画もありましたっけ。


しかし、これが本当に教育と言えるのでしょうか?

まあ、確かに、いくら悪者とはいえ腹に石を詰めて井戸に投げ込んで溺死させたり(7匹の子ヤギ)、魔女を竈に押し込めて焼殺したり(ヘンゼルとグレーテル)、背中に背負わせた薪に火をつけて殺しちゃったり(カチカチ山)、と、子供に語るにはちょっと残酷なお話が多いのも事実です。でも、子供ってそういう残酷なお話やブラックな話が好きですし、そういうお話を聞いたからと言って殊更残酷な人間になるというわけでも無いでしょう。


原作を無視してまで強引に持っていく幼稚園流のハッピーエンドには大いに疑問です。私的には、凶暴な狼や、悪い魔女が最後は悲惨に死んでしまうというのも、それはそれでハッピーエンドではないかと思います。


そこまでするなら、全く新しいお話を作るべきでしょう。幼稚園で習った昔話と、お爺さんやお婆さんの語ってくれる昔話が食い違ったらかなり問題ですよね。


まあ、桃太郎を学級委員レベルのヒーローに貶めるのは良いとしても、いつぞや見せられた「蟻とキリギリス」にはあきれました。何と、原作では冬に野垂れ死にしてしまうはずのキリギリスさんは、蟻さんに助けてもらって、蟻さんのお家で蟻さんたちと仲良く冬を越すのです。思わず、


 アホかぁ~~っ!


と叫びそうになりました。これじゃあ、夏の間一生懸命働いた蟻さんの立場はどうなるんですかぁ!


蟻さんは、成金のように贅沢三昧に暮らすために働いているんじゃありません。厳しい冬を何とかしのぐために必死で働いているんです。キリギリスを居候させるような余裕は無いと思うのですがね。そういう現実を無視して、


 キリギリスさん可哀想。


という安っぽいヒューマニズムを幼稚園児に吹き込む事は、単に偽善なだけでなく、社会のモラルの崩壊につながりかねない危険な行為であるとさえ思います。


もちろん、十分な余裕があれば助けてあげれば良いと思います。しかし、社会に余裕がなければ遊んで暮らしていたキリギリスが飢え死にしても仕方が無いのです。助ければ蟻まで死んでしまうのですから。


可哀想なキリギリスさんを助けたければ、この社会に蟻さんがたくさんいなければならないのです。


子供たちが、この偽善的なお話を聞いて


 僕も蟻さんになってキリギリスさんを助けるんだ


となればともかく、


 最後は蟻さんに助けてもらえるんだ


と刷り込まれてしまったら、日本という社会はいずれ崩壊するでしょう。


もちろん、現実の社会では、遊び人のキリギリスさんといえども飢え死にさせてはならないのは当然です。


しかし、そのためには、キリギリスは、童話の中ではちゃんと飢え死にしてもらわねばならないのです。


子供達に正しいモラルを教育するためには、童話に登場する狼や、魔女や鬼は、桃太郎のようなヒーローに退治され、悲惨に死んでもらわねばならないのです。