4/2富士嶽神社→鶉長良神社参拝後、向かったのは同じ邑楽町の恩林寺へ
山門
六地蔵尊
手水舎
由緒
当山は邑楽郡邑楽町鶉にあり、鎌倉建長寺を本山とし、本尊を薬師瑠璃光如来とする。鎌倉幕府滅亡の折、最後の執権第14代北条高時の弟四郎慧性の夢枕に、日頃信仰していた江ノ島弁財天から「上野の国邑楽郡の郷に清浄の霊地あり、その地に行き塁を築いて居住し、時の到るを待つべし」とのお告げがあった。そこで慧性は荒間五郎朝春 と重臣の垣上駿河守正信、小久保図書、安藤安綱の主従らと共に夜陰に紛れて逃れ、多々良沼のほとりに辿り着いて居を定めた。文和2年(1353)一宇を建立して鎌倉の大本山建長寺第44世住職、東林友 丘禅師と知縁の因をもって当山の開山とし、北条一門の菩提寺を弔い再起の祈願所と定め、更に当山第2世 継芳正胤和尚により江ノ島弁財天を勧請したと伝えられる。ただ残念なことですがその後の火災によって全てを焼失し、故事を尋ねる由を失ってしまいました。従って今日 過去の出来事を遡及する術は檀家の墓石、墓誌により年号より故事に思いを馳せる事が唯一の史跡であります。あゆみに年号を標記して御座いますので、是非檀家の皆様でご先祖の足跡を遡って下さいます事を願っております。
ソメイヨシノは昨年クビアカツヤカミキリ被害で一本伐採されました
伐採だけでなく未来に向け桜の植樹も沢山の場所で行われています
いつまでも桜の花が楽しめる環境を作ってもらいたいですね