2/9光性寺と大蔵院で頼んでいた御朱印帳を受取→三宝大荒神社→日枝神社と参拝し、向かったのはお隣太田市に鎮座する大久保赤城神社

御朱印
御朱印帳のページがなくなり改めて2/15に世良田八坂神社で頂きました

社号碑

鳥居

由緒
この村は『平治物語』によると「東山道(あづまみち)」が通っていたと云います。

 そして、この地の豪族の大窪太郎(おおくぼ たろう)が館を構えておりました。平安時代後期の保元の頃(1156年)の事、この者の娘が平氏の嫁になるのを由とせず奥州平泉の藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)を頼って行く途中、秀衡の家来で奥州信夫郡の郡司で湯の庄司とも呼ばれた佐藤基治(さとう もとはる)の妻となる事となり二人の男子を育てました。兄は佐藤継信(さとう つぐのぶ)、弟を佐藤忠信(さとう ただのぶ)と称していました。

 二人は縁あって源義経の家臣となり、兄は元暦二年(1185年)に「屋島の合戦」の際義経の身代わりとなって戦死しました。また、弟忠信は平家滅亡後義経と行を共にしていたが京都の館に在った時、源頼朝の手勢に攻められ、この時義経の鎧を着用し身代わりとなって討死をした。時に文治二年(1186年)の事である。

 赤城社はこの大窪太郎が創建したものであるが数百年の間荒廃のままであった。世も移り替り江戸時代となると、時の幕府は貿易の決済や国内需要を賄うため足尾銅の大増産を計画し、銅山奉行に岡上景能(おかのぼり かげよし)を任命した。景能は銅運搬の人馬確保のため笠掛野に新しく八ヵ村を創設した。寛文二年(1662年)近隣の村むらより移住した人達により大久保村が誕生した。

 江戸時代前期の寛文五年(1665年)新設されたこの村へ赤城社を移し、赤城神社として鎮座しました。以来三百有余年村人の崇敬を集めてその発展を願ってきたのであります。そして生れた子等の無事な成長を願い、又戦中は出征する兵士が武運長久を願って無事帰還して大願を成就してきた。

 赤城神社は県内七十八社のうちの一社である。昭和三年(1928年)幣帛供進指定村社となっていたが太平洋戦争後社格を失って現在に至っている。

拝殿

拝殿や鳥居周辺には豆が落ちてました

赤城と彫られた鬼瓦

本殿

ガラス越しだと上手く撮れないですね

末社



鳥居周辺には銀杏も沢山落ちており、私も妻も気付かず踏んでしまいました
車に乗った後、銀杏臭くならなくて良かった
参拝しませんでしたが境内道を挟んだ西側にある公民館奥、南側には大久保不動明王が祀られています

群馬県太田市大久保町135-1
駐車場は境内道路挟んで西にある公民館駐車場を利用しました