7/7武田神社→山梨懸護国神社→積翠寺参拝後、甲府駅近くで昼食をとり向かったのは円光院

御朱印

由緒
『甲斐国志』巻八二『甲斐国社記・寺記』通巻三二に拠れば、円光院の前身は八代郡小石和郷(笛吹市石和町)に建立された清光寺で、清光寺は甲斐源氏の始祖である逸見清光(源清光)の開創であるという。室町期に甲斐守護武田信守により父信重の菩提寺として再興され、成就院と改められる。石和の地は室町期までの武田氏の本拠地であったが戦国期には武田信虎により居館が甲府へ移転され城下町が整備され、城下には武田氏の庇護を受けた諸寺院が成立する。成就院も永禄年間に武田信玄(晴信)により甲府城下に移転され甲府成就院となり、甲府五山のひとつに定められる。武田氏からは茶湯料・屋敷分として林部・石和の地に18貫文を寄進されている。

弘治2年には信玄の信任を得て伊予国安国寺(愛媛県東温市)から甲府へ赴いた遠叔が住持となっており、永禄7年には説三恵璨の住持が確認されている。『寺記』に拠れば、元亀元年に死去した信玄正室三条夫人(円光院殿)の菩提寺で、三条夫人の院号に因んで改称し、境内西には三条夫人の墓所である宝篋印塔が造営されているほか、江戸時代に甲府藩主となった側用人の柳沢吉保は武田遺臣の後裔を称し恵林寺の信玄霊廟などを造営しており、円光院においては石灯籠を寄進している。

また、武田氏滅亡後の徳川氏時代の代官である平岡氏の墓所も存在している。

本尊の釈迦如来像は南北朝期の造仏で、京都の円派仏師による制作と考えられている。衣の表現には金泥地に截金と盛上げ彩色で繊細な文様を表現し、棲雲寺(甲州市)像との共通が指摘されている。また、山梨県内に伝来する韋駄天像は円光院の旧蔵で、釈迦如来像と同時期の制作であると考えられている。後補の兜内側には天文21年(1552年)年紀と作者寿泉書記の朱漆銘文が残り、寿泉については武田家との関わりも深い窪八幡神社(山梨市)の本殿壁板墨書銘に名が見られる寿仙と同一人物であると考えられている。

ほか、円光院武田家系図や勝軍地蔵像・刀八毘沙門天像などの寺宝を所蔵しているほか、円光院文書が伝わる。

2014年には刀八毘沙門天像と勝軍地蔵像の二像が修復されることとなった。



手水舎

本堂




信玄公正室三条夫人の墓

鐘楼堂

水子地蔵


山梨県甲府市岩窪町500
駐車場は境内にあり

円光院から少し離れた場所に信玄公の墓所があるので移動します
駐車場もありますよ



信玄公の墓所から南へ1~2分進むと河尻塚がありました

すぐ裏は民家で洗濯物が干されています

積翠寺の境内や本堂は歴史を感じるものでしたが円光院は新しい本堂や客殿で立地的にも檀家の数が違うんだろうと感じました

帰って来てから知りましたが我が家の家紋も四つ菱なんですが四つの菱形の家紋は武田氏に関わりのある家系だとか
まぁ実際、武田氏に仕えていた真田氏が佐野(犬伏の別れ)まで来ているので武田系の家臣などか群馬の東毛地区まで来ていても辻褄は合います
偶々、山梨へ行きましたが我が家のルーツを知る切っ掛けを頂けた御縁に感謝します

まだこの日の御朱印巡りは続きます