3、速見の夢(4)
夕暮れ時、練習を終えた部員達はそれぞれ帰路へとついた。
陽一は、今日は珍しく司と帰宅する事となった。
何故なら一緒に横浜スタジアムで横浜VS広島戦を見に行く約束をしたからである。
司は港南学院高校2年A組の理数科、いわゆる秀才クラスの生徒であり、成績は学年でもトップクラスである。
華々しい経歴のある野球部員の中で、彼だけはどういうことか高校生から野球を始めたのだ。
もともと野球が好きだったが、中学時代はレギュラーになる自信が無かったので野球部へは入らなかった。
なんと中学時代は科学部に所属していたのである。
実は野球よりも科学の方が得意なのである。
何故高校で野球を始めたのか?3名だけの野球部ならノビノビ野球ができるというのが理由である。
背丈は160cmと選手としてはかなり小柄であり、基礎体力もそれほどない。
足の速さだけは平均的だが、とにかくパワーが無く、腕は女性のように細かった。
硬式バットはとにかく重く、司が素振りをすると、まるでバットに振られているようである。
だがこの非力の司を陽一はかっているのである。
何故か?それは司の頭の良さである。
ある日部室に置きっぱなしにしていた『原ノート』を陽一は見てしまったのである。
この『原ノート』は港南学院野球部員を分析した資料だった。
『徳永 走塁 守備 肩 飛距離申し分なし。しかしスイングの軌道に柔軟性が無い。右投手のサイド、アンダースローのスラーブ(スライダーとカーブの中間)に弱点あり。投げてはいけない球インコース高めのストレート』
陽一は愕然とした。全て当たっているからだ。
陽一は右のアンダースローや、自分の体とは反対側に逃げていく変化球が苦手なのだ。
だから速見のスクリューボールが打てなかったのだ。
野球を始めてから司は頻繁にプロ野球を見に行き、都度レポートを作成するという一見変わった趣味を持っていた。
そしてそのレポートを自宅のパソコンに入力しプロ野球選手の長所と欠点を細かく分析しているのである。
何のため?ただの自己満足である。
学者肌の性格の司は、何事も理論を並べないと気が済まないのである。
だがこの『原ノート』の発見は陽一にとって何よりも画期的な事であり、早速陽一は司に親交を求めた。
すると司は「じゃあ徳永君、今度プロ野球見に行こう」と言ってきた。
ところがここで問題が発生した。
グラウンドの片隅でそれを聞きつけた由香子がしゃしゃり出てきた。
いつの間にか野球部のグラウンドは、全て由香子の監視下に置かれていたのだった。
「ねえねえ。じゃあさあ。私達と一緒に行かない?パパに言えばネット裏の特等席タダなんだ。年間シート借りられるんだ。恵も行くよね?」
恵は突然の由香子のお誘いに「えっ!私野球あんまり知らないし・・・」と言って断ろうとすると、陽一は恵に「お前も来い。こんな奴の面倒俺に見させるのかよ」目で合図をした。
それが通じたのか恵は「ああ・・・そうだね行こうか・・・」と言った。
本来なら陽一、恵、司、由香子の4人で行くところだったが、もう一つ付録が付いてきた。
野球部を監視している由香子を、ずっと監視していた文麿だった「俺も行こうかな」
「なんで!一ノ瀬来ないで!」由香子が言うと、陽一は「おお!じゃあ行こう行こう!」と嬉しそうに言った。
陽一は犬猿の仲の文麿が、はじめて救いの神に見えた。
横浜スタジアムのバックネット裏席。
1978年に作られたこの球場は出来た当時はとても画期的な球場だった。
なにせ当時のスタジアムとしては他球場と比較して、圧倒的に広かったのだ。
横浜ベイスターズの前身の大洋ホエールズはかつてこの広いスタジアムの利点を生かし、「スーパーカートリオ」と名づけられた1、2、3番で機動力野球を展開していたのであった。
しかし時代が経つにつれ東京ドームが出来、福岡ドームができ、大阪ドームが出来、このかつての名スタジアムも今や普通の球場と成り下がっていった。
しかし往年のファンからすれば、はっきり言ってドーム球場なんて邪道である。
野球というのは野外でやるから野球と言う。
敵は相手だけではない。
時に雨と戦い、そして風の影響も受け、気温とも戦い、自然の条件全てを受け入れて戦う。
これこそが本来のベースボールなのだ。
そんな古き良き時代を知る生き証人の横浜スタジアムのバックネット裏に、平成生まれの5人の若者達が並んで座っていた。
右から由香子、陽一、司、恵、そしてお目当ての由香子から一番離れて文麿。
「ねえねえ、徳永君、徳永君たらあ」由香子は甘えた声を出した。
すると陽一は「なんだよ」とめんどくさそうに返事をした。
「あの選手誰?ピッチャーの人」
すると司が「広島のエースだよ。球速が142~144キロだけど、フォームがゆったりとしているから、打席に立ったときの体感速度がちがうんだよ。」
「へえ、そうなの。だから?」由香子はお前に聞いてないと言わんばかりの態度だった。
とっさに空気を読んだ恵は「えっ?体感速度ってあるの?」と司に質問した。
「うん。人間の目の錯覚なんだ。豪快なフォームだと最初から人間は右脳で速い球がくると準備してしまう。だけどゆったりとしたフォームだとそんなに速い球は来ないと思ってしまう。その予測していたよりも速い分球が速く感じるんだ」
「へえ。そうなんだ」恵は司が何を言ってるのかさっぱりわからず、ただただうなずいた。
「それでね、一番いい例が昔江川って投手がいたんだけどそのフォームが・・・・こうなっていて・・・それでスリークウオーター気味から・・・・」恵はすっかり司ワールドにはまってしまい、会話に食いついた事を後悔した。
その時カーンと大きな音がなった。横浜の選手がホームランを打った。
「さすが!内川!」と言って司は手を叩いた。
恵はそのホームランのおかげで、司ワールドからようやく脱出する事ができた。
横浜ベイスターズにとって貴重なホームランだが、恵にとっても貴重なホームランだった。
