●質問
なんで外モンゴルはソ連の支援受けて、内モンゴルは中国にとどまったの?
●回答
清朝のプリントで学んだように藩部として外モンゴルも内モンゴルも同じモンゴルとして清朝の領土でした。転機は1911年の辛亥革命です。この時にロシアに近かった外モンゴル(北部モンゴル)はロシアの援助で独立をしていきました。内モンゴル(南部モンゴル)についてはロシアは中国の干渉を気にかけ、独立の援助はしませんでした。ここで、外モンゴルと内モンゴルに分かれます。そして、1917年にロシア革命が起きると、ロシアの影響力の強い外モンゴルは1924年にモンゴル人民共和国として社会主義国として歩みを始めることになります。
ちなみに、アジアで初めての社会主義国が、こな外モンゴルのモンゴルで、建国者はチョイバルサンです
清朝から現代までの流れをまとめると以下になります。
外モンゴル:ジュンガル部→モンゴル人民共和国(中国から独立)
※ジュンガル部は、雍正帝、乾隆帝時代に征服。
内モンゴル:チャハル部→チャハル特別区→チャハル省→内モンゴル自治区(全て中国領)
※チャハル部はホンタイジの時代に征服。
もう少し細かめな補足を1つ。
これは日本史の範囲になるのだけど1932年に日本が満州国を成立させた時に、次の大陸の領土として内モンゴルを狙って第二の満州国にしたという話もあります。
内モンゴルは、日本の力を借りて中国から独立したわけです。
この結果できたのが、
蒙古連盟自治政府と呼ばれる内モンゴルにできた日本の傀儡政権です。
この蒙古連盟自治政府は、日本の敗戦によりなくなります。
戦後内モンゴルは、中国から独立した国家建設をしようとして、外モンゴルもうちモンゴルを支援して一つのモンゴルを目指します。
しかし、時代は冷戦構造です。
ソ連は、社会主義国となった中国との関係を重視するため、外モンゴルの内モンゴルの独立支援をやめさせました。
その結果、内モンゴルは、中国領土にとどまります