まずは、暗記事項として
朱子が性即理。
陸九淵が心即理、そして明代の王陽明も心即理。
ここを覚えておきましょう。

心即理と性即理については、倫理の範囲です。
しかし、早稲田では内容についての正誤も過去に出たことがあるので、一応押さえておきましょう。

では、次に性即理と心即理の違いについて。

まずは、性即理から説明します。
朱子は人間の心を良い面と悪い面に分けました。

良い面とは思いやりがあったり、自分の感情を律したりといった面で、悪い面は人の悪口を言ったり、だらしなくなる面です。

この人間の心の良い面が「性」です。つまり、性即理とは、人間の心の良い面がこの世界の真理であるという考えです。

その良い面を追求していくことを朱子学では重視します。(また、この真理を追求する姿勢を居敬窮理と言います)

したがって、朱子学は真面目で形式的になりがちになります。

これを批判したのが、陸九淵の心即理です。

陸九淵は、心を良い面と悪い面に分けず、どちらの面もあるのが自然とし、その心こそが真理であると主張します。

朱子が唱えていることは、不自然で表面上で良い心の面が出ていたとしても裏で悪い心を抱いていたら意味がないと言います。
それは、誰かのためではなく自分のための偽善であると。

朱子が理想主義的で、陸九淵は、現実主義と見ても良いでしょう。

この説明を聞くと心即理が覚えやすいと思うので、それでイメージを作ってもらえればと思います。

ちなみに、この陸九淵の考えを引き継いで、明の時代に陽明学を起こすのが、王陽明です。
王陽明や陽明学の説明でも心即理が、出てくるのはそのためです。