★シチリアの歴史がよくわからないです。
特に、シチリアの晩鐘(ばんしょう)が資料集や用語集の説明を見てもわかりません。
★回答
シチリアの歴史はちょっとわかりにくいです。ち整理して説明します。
まず、まず12世紀にノルマン人がイタリアに侵攻し、ルッジェーロ2世が両シチリア王国を作る。
その後、このノルマン人の時代は断絶をして、神聖ローマ帝国が支配権を持つようになる。神聖ローマ帝国のイタリア政策の一環です。特に神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世(第5回十字軍で有名)はシチリア出身の皇帝としてもよく知られています。
しかし、神聖ローマ皇帝と対立するローマ教皇の要請でフランスのアンジュー伯がシチリアに侵攻し、神聖ローマの勢力を一掃します。
ここから両シチリア王国は、フランスのアンジュー伯の支配を受けるようになります。
まとめると。ノルマン人→神聖ローマ(シュタウフェン家)→フランス(アンジュー伯)
このフランスのアンジュー伯はフランス王の家臣でありながら、イギリスのプランタジネット朝を作ったアンジュー伯です。
このフランスのアンジュー伯支配に対してシチリア人々が起こした反乱がシチリアの晩鐘です。パレルモで始まったこの反乱が夕方の教会の鐘が鳴り響くのと同じように各地に広がっていったことからこう言います。この反乱により多くのフランス人が虐殺されました。
この時にフランスの援軍としてやってきたイベリア半島のアラゴン王国がそのままシチリアを支配し、アラゴン王国が支配するシチリア王国が成立した。アンジュー伯は、最終的に南イタリアのナポリのみを支配するナポリ王国作り、影響を残しました。
15世になるとレコンキスタの拡大を受けてアラゴン王国が勢力を拡大し、ナポリ王国を併合。ここに再びシチリアと南イタリアの両方を支配する両シチリア王国が成立しました。
1479年、アラゴンとカスティリャが合併してスペイン王国となると、この両シチリア王国もスペインに組み込まれます。
まとめると、シチリアの晩鐘によって、アラゴンが支配するシチリア王国とアンジュー伯が支配するナポリ王国に分かれた。しかし、その後、アラゴンのシチリア王国がナポリ王国を併合して再び両シチリア王国となった。ということです。
シチリアについては12世紀ルネサンスも大事です。
こちらもまた別途、特集します。