お香の匂いが鼻をつき、頭に響いた。せみがうるさいほど鳴いて喧しかった。木組みの天井がすぐそこにあった。複雑に合わさった構造が見ていて飽きなかった。ここはお寺か、とそのときになって思った。地べたに布団が敷いてあり、ぼくはそこへ寝かされていた。
住職は出会ったときに比べて、ずっと真剣な顔つきだった。
「こういうことはよくあるのかね」と言った。
「いえ、初めてです」とぼくは答えた。
起きようとすると、まだ寝ていなさいと言われた。ぼくたちは鉄塔からここまで戻るのに恐ろしく時間がかかった。ちえさんに迷惑をかけないようにと、それだけを気にしながら帰ってきた。何しろぼくを抱きかかえるようにして運んできたのだ。疲労も尋常ではないだろう。
住職は腕組みをして慎重に言葉を選んでいるように思えた。すぐ脇で彼女がひどく心配そうにしていた。電灯がついていたので、すっかり夜になってしまったようだ。いまから帰るのはさぞかし大変だろうと思った。
「本当に初めてなのかね」と住職はまた言った。
「ええ、まあ」とぼくは答えた。
どうも含みのある言い方だった。
「お父さんには連絡をしておくから、今日は泊まっていきなさい」
ぼくが断ろうにも、思った以上に身体が言うことを聞かなくて布団から出れなかった。
ずっと歩きっぱなしだったから、あちこちにがたがきていたのだろう。
それでも疑問に思ったことがあった。
「父を知っているんですか」とぼくは尋ねた。
「もう長いつき合いだよ」と住職は言った。
父のことも、母のこともぼくは何ひとつ知らない。
まわりはすべて知っているのに、ぼくだけが蚊帳の外なのだ。
「気をつけなさい」住職はやけに顔を近づけてそう言った。
そっと耳にささやくようにして、こうつけ加えた。
――ハイデン。