普段は夫の写真は遺影以外見ないようにしている。

夫の持ち物や、思い出のある物も極力見ない。

見ないというより、見られないの。

 

死別後3年と2カ月近くが経とうとしているけれど、

悲しみ、虚しさはちっとも変わらない。

 

さすがに一日中泣いているという事はなくなったけれど、

それでも、まだ瞬時にスイッチが入って号泣することがよくある。

特に、仕事が休みで家の中にいるとき。

仕事帰り、最寄りの駅から自宅まで歩くとき。

 

こんなだから、夫の持ち物は、ほとんどが手付かずのまま。

このブログでも、よく遺品整理に頭を悩ませているという記事を読むけれど、

私はもう気のすむまでこのままにしておこうと思っている。

 

だって、こんな苦しい作業、まだできないから。

今無理にすることもないし。

 

自分の荷物は、この春ごろから意識して整理している。

仕事関係や何やら、いつの間にこんなに…

たくさんの書類が床に山積みになっている。

 

今日出勤前、少し時間に余裕があったので、久々に棚を眺めて片付けようとした。

 

今まで目を向けなかった、数々の旅のガイドブックや雑誌…

 

そんなつもりはなかったのに、軽い気持ちで一冊手に取りハッとする。

 

付箋が張ってある…

何か書いてある…

これは夫の字…

 

もうだめ

一気に思い出される。

 

よく見てみると、

本棚に並ぶ数々の旅行雑誌はほとんが2019,2020年のもの。

2021年以降の物は一冊もない。

 

そこで思い出す。

これらのほとんどは夫の闘病中に買ったもの。

 

苦しい癌の治療中、

少しでも気分を明るく、

なんとか生活の中に楽しみを見つけ、

前向きに治療に励んでもらおうと、

様々な旅行雑誌を買ったの。

楽しいことを考え、

旅に出かけることを目標に、生きてほしくて。

 

夫の入院中、体調がいい時は二人で病院内のコンビニによく行った。

行くと、私も夫も少し、何と言うかホッとした。

そこが唯一社会とつながっている場所のように感じたから。

 

病院の個室に長くいると、だんだん社会から隔絶されていくような気がする。

 

夫は入院をすごく嫌がっていた。

「自分が病人であることを嫌でも思い知らされる」

「本当に病人になっていくような気がする」

「病人扱いされるのが嫌だ」と。

病人なんだから矛盾していること言ってるようだけど、気持ちはよく分かる。

 

コンビニ内ではよく雑誌コーナーに立ち寄った。

私はなんとか夫に気持ちを明るく持ってもらいたくて

「ねえ、こんなところに行きたいね」

「ここなら車ですぐ行けるよ」

と根気強く話しかけ、雑誌を見せていたの。

 

大抵夫は旅行雑誌など見ようともしなかった。

それでも5回に1回ぐらいは少し興味を示したので、

そんな時に買ったの。

『大人の日帰り旅××』

『ドライブベストコース××』とかね。

 

きれいな景色の写真が目に飛び込んでくる。

ここに行こうと夫は付箋を貼っていたのね。

ここに行ってみたかったのね。

夢かなわず逝ってしまった夫の胸の内を思うと、

無念で可哀想で、胸がかきむしられるような思いがする。

 

でも、まったく実現しなかったわけではないのよ。

実際に行けた場所もある。

それがせめてもの救い。よかった。

この本の中の一か所だけでも行けたんだもの。

 

パラパラとページを繰ってみる。

 

でもほとんどが「行ってみたいね」で終わった場所。

いつか治ったら行くんだと思っていた場所。

 

行けなかった。

ここも、あそこも…

 

私一人でも、今からでも行こうと思えば行けるよ。

でも、もうそんなの全然意味がない。

一人で行ったって、なんの意味もない。

そんなことのためにこの本買ったんじゃない!

夫と出かけるためにこの本は買ったのよ。

 

それなのに、

もう永遠に夫と行くことはない。

もうコロナもおさまったし、

気候も今がさわやかで、一番旅行にいい時期なのに、

もう私が夫とここに行くことは永遠にない。

 

こんな虚しくなる本、いつまで私はここに置いておくの?

見るたびに悲しくなるだけじゃない。

 

そう思っただけで、ぐっと胸の奥から何かがこみ上げて来て、

このままだと私、今日これから仕事に行けない、とハッと我に返り、

 

あわてて雑誌を元に戻し、

心にも蓋をして、

何も考えないようにして出かけたのでした。