GW皆様いかがお過ごしでしょうか。
今年は早くも異常な暑さですよね。
私はもう明日から仕事です。
このGW中のささやかな出来事もアップしたいのですが、
とりあえず、以前書いて下書きに保存してあった記事をあげます。
よろしければどうぞお付き合いくださいませ。
少し前の話になるけれど
坂本龍一さんの追悼番組をテレビで見ました。
前にもこのブログで書いたけれど、
私は坂本龍一さんのファンでした。
どことなく亡くなった夫に似ているんです。
というと、夫は全力で否定するような気がするけれど。
私が勝手にそう思っているだけです。
ええ、確かに夫には芸術的素養はあまりなかったと思いますよ。
楽器演奏はできず、
歌は音痴で、
絵など描かせれば、まだ幼稚園児の方が上手なんじゃない?と思うほどで(笑)
でも、夫はとにかくこの世の美しいもの全てを愛していたんです。
音楽、美術、文学…
最も美しいと思っていたものは、自然じゃなかったかしら。
今なら私もわかります。
この世に自然以上に美しいものはない。
自然を愛する人は平和を愛する人です。
戦争など醜い最たるもの。
夫はとにかく穏やかで平和を愛する人でした。
坂本龍一さんもそうでしたよね。
番組ですが、ひとつ、すごく共感できるところがありました。
それは、坂本さんが癌と宣告された時の事。
まるで「死刑宣告」を受けたようだと感じ、
そしてその後、しばらく音楽が一切聴けなくなってしまったと語ったところ。
音楽を聴くのにも体力がいる。
音楽を受け止めるだけの力が自分の体にあることが必要だ。
自身が癌と宣告され、
気力を失い、
奈落の底に突き落とされたように感じて
音楽も聴けなくなってしまった時期があった、と。
そんな時、坂本さんはYouTubeで「雨音」というのを出し、
(そういうのがあるんですね)
ただずっとその音声を流し続けていたのだそうです。
雨音にもいろいろあるけれど、しとしと降る雨の音よ。
時には一晩中、その音声を流し続けていたのだとか。
雨音の中で眠りについてらしたのね。
この部分に私は思わず息をのみました。
私にも同じ経験があったから。
私も夫を亡くした後、しばらく音楽を聴いた記憶がありません。
聴こうとも思わなかったし、また聴けなかった。
これも以前ブログのどこかで書いたことがあるけどね、
私の場合、ただ聴いていたのは「雨音」ではなく、
秋の虫の音だったの。
私の場合はライブよ。生演奏よ。
(これもYouTubeで聴けるのね。検索したらありました。)
あのころ私は
夜になっても部屋の明かりもつけず、
テレビもつけず、
ただボーっとソファに座り込んで、
気づいたら何時間もそうしていた。
放心状態というのとも少し違うんだけどね。
無力感と言ったらいいのでしょうか。
特に考え事をしていたわけでもなく、
泣いていたわけでもなく、
一切の感情をシャットアウトしたような状態になっていて、
外から聞こえてくる秋の虫の音をただひたすら聴いていたの。
「聴いていた」というのは正確な表現ではないかな。
ただ、虫の音が耳から入ってくるのに身を任せていたと言うべきかな。
当時の私には、そうしているのが一番楽だった。
心を無にして、ただ自然が作り出した音声に身を委ねているのが。
あの坂本龍一さんもそうだった。
分かりすぎるほどわかる。
ぼーっと何時間も心を無にして、ただ雨音を聴いていたという坂本さん。
考えただけで涙が出る。
あまりの悲しみ絶望に心が麻痺してしまったような時は、
音楽がかえって邪魔になる。
というか、受け止めることができない。
そんな経験、生まれて初めてだった。
経験してみて初めて分かる。
虫の音、雨音、風音、波の音、鳥のさえずり…
自然が奏でる音には、どんな音楽もかなわない包容力がある。
絶望に打ちひしがれた人を、優しく包み込んで受け止める力がある。
坂本さんはしばらくして音楽活動を再開された。
残念ながら志半ばで逝ってしまったけれど、
でもその音楽はいつまでも残っていくでしょう。
凡人の夫は何かそういうものを世に残したわけではないけれど、
でも私の心の中に、いついつまでも褪せることのない鮮やかな記憶を残している。
遺された私はその記憶を大切に胸に、今、そしてこれからを生きていく。
夫は亡くなってしまったけれど、思い出が私の胸にある限り、
これからも夫と共に私は生きていく。
話変わって
この6月と7月に、チケットを取ったんです。
かねてから好きだった、バレエ「ラ・バヤデール」の公演と、
最近「推し」ているピアニストの武道館コンサート!
今からもうすっごく楽しみなの。
再び音楽を聴こうという気力が湧いてきたという事は
少なくとも、もう絶望に打ちひしがれた状態ではないってことかな。
二年前は考えられなかったです。昨年もまだ。
少しずつ前を向いていきたいです。
あせらず一歩、一歩…