久々に夫の夢を見ました。

 

夢って、

究極の個人的な行為で、

あくまでその人だけのもの。

 

本人にとってはいかに大事であっても、

他の人にとっては、人様の見た夢に正直それほど関心は持てないし、

その夢を見たとき感じたリアルな気持ちは、

残念ながら、いくら言葉を尽くしても他の人には伝わらないと思う。

その映像を見せることができたとしても、残念ながら伝わらない。

映画を見せるのとはわけが違う。

 

でも、だからこそ、

夢って、本当の意味で、その人だけのもの。

そもそも、人様に共感していただく必要などないものだと思ってる。

そっと、自分の心の中でいつも温めておくもの。

夢って、その人のその時の状態そのものを表しているんだと思う。

(フロイトの『夢判断』思い出しました。いつかきちんと読んでみよう。)

 

 

 

でも書きますね。

このブログは私自身の記録でもありますから。

 

 

 

 

外で、夫を待っているんです。

場所は、私がよく行くジムの近く。

住宅街の中、コンビニがある交差点の角。

(ちなみに、その場所で夫と待ち合わせをしたことは一度もありません。)

 

季節は…

暑くも寒くもなかったな。

 

なかなか来ない。

 

首を伸ばして夫がやって来るのをひたすら待つ私。

 

ふと、場所を間違えてしまったのかと不安になり、周囲を見渡すと…

見えるはずのない、もう一本向こうの並行して走っている道を、

夫が歩いていくではないか!

ちょうど私が立っている位置を平行に通り過ぎようとしているので、

夫からは私の姿は見えない。

まるで、最初から待ち合わせなどしていなかったかのように、

どこかへ向かって、首も上げずに、表情一つ変えずに、

ただひたすら、すたすた歩いていく。

 

その姿には見覚えがある。

それは、闘病中、体調が回復してジムに出かけたときの夫のあの姿。

今も鮮明に覚えている。

 

上下とも揃いの運動着のような格好で、

ジム通いに使っていた淡いグレーのリュックを背負い、

青いキャップをかぶった夫の姿。

すっかり痩せてしまった夫の体に、リュックがやたらと大きく見えた。

 

 

待って、待って!

私はこっちにいるんだよ!

 

あわてて追いかける。

ところが、追いかけても追いかけても、夫との距離は一向に縮まらない。

夫はそんな速足には見えないのに。

そこで気が付く。

走っても走っても、私の方が前に進めないのだ。

必死で足を前に出そうとするのに、

体が思うように動かない。ちっとも前に進めない。

そこで叫ぶ。

 

「待って、待って、○○! ○○!(夫の名)」

 

ところが、その声も思うように出ない。

何度も何度も、叫ぼうとするのに、

思うように声も出ないの。

まるで、私の全身が金縛りにあったみたいに。

 

夫の姿はどんどん私から遠ざかっていく。

その姿を後ろから、なすすべもなく見つめる私。

夫からは私の姿は全く見えていないみたい。

そもそも約束などしていなかったようだ。

 

どこかに向かってどんどん私から遠ざかっていく夫。

その姿は、決してかつて見たような元気あふれる姿ではないの。

うつむき加減で、ただひたすら黙々と歩いて遠ざかっていくの。

追いかけようとしても何もできず、ただあせるばかりの私…

 

 

そこで目が覚めました。

 

しばらく夢かうつつかわからなかった。

涙も出なかった。

呆然として、何も考えたりせず自然に任せ、

頭の中が鮮明になるのをただひたすら待ちました。

 

今のは何、

今どうして私はお布団の中にいるの?

夫はどこに行ったの?

あれはなんだったの?

 

 

 

今こうして文章に起こしてみると、悲しくて涙が出ます。

言うまでもなく、あれは私たちの別れの象徴ね。

久しぶりに夢で夫に会えたというのに、

なんてせつない夢を見たのかしら。

このところ、仕事で忙しくしていたおかげで、

徐々に、私なりの生活のペースができてきたと思っていたのに、

また、こっちの世界に引き戻されたじゃない…

 

もう起きてから何時間も経つのよ。

でも今の方が鮮明に思い出せる。

「夢判断」じゃないけど、冷静に振り返ることができるの。

 

 

あの夫の姿はよく覚えている。

闘病中の数少ない明るい記憶だから。

 

夫は闘病中、ケアマネさんに「生活上の目標は」ときかれ、

即答で「またジム通いがしたい」と答えたぐらい、体を動かすことが好きだったの。

ほとんど毎日近所のジムに通っていたから、

病気になって通えなくなったことが何よりつらそうだった。

だから、驚くほどの回復力を一時見せて、

再び通い始めたときの夫の嬉しそうな姿は、はっきりとおぼえている。

あれは希望の象徴だったの。

ここまで夫が回復したことが本当に嬉しかった。

だから、「いってらっしゃい」と笑顔でいつも送り出し、

帰ってきたらすぐ食べられるようにと食事を用意して夫の帰りを待っていた。

「ただいま!」とすっきりした顔で帰宅する夫を出迎えるのが嬉しかった。

お腹を空かせて帰ってくるだろうから、晩御飯は夫の好物をよく作った。

一番よく作ったのは豚肉の生姜焼きだったかな。もうあれから全然作ってないけど。

「おいしい!」と言いながら、その日のジムでの話を楽しそうに私に聞かせる夫。

どうってことないけれど、あれっていかに幸せな日々だったか今よくわかる。

 

理屈では、進行性の癌で完治は望めず延命治療のみとわかっていたけれど、

でも、私たち二人ともそんな現実受け入れがたく、

回復するんだ、絶対よくなるんだ、という希望をずっと持ち続けていたの。

だから、ジム通いという目標の達成には大きな意味があって、

あの夫の姿は、回復に向けての希望の象徴だったの。

 

 

あの時夫が使っていたリュックは押し入れの中にしまってあります。

一年ぐらい前に一度取り出した時、

いろんなことを一気に思い出して、

たまらず、リュックを抱きしめて声を振り絞って泣いた。

 

いつかは私が使いたいと思っているけれど、

当分は使えそうにありません。

もう一つのあまり使っていなかった方の小さめリュックを、

今は私が使わせてもらっています。

 

 

夢の話のはずだったのに、

いつの間にか、

リュックの思い出話になっちゃった。

日曜日だっていうのにしんみりするね。

 

 

読んでくださったみなさま、感謝します。

ご伴侶の思い出の品って、どなた様にもありますよね。

みなさまのお話もお聞かせくださいね。

今日は気を取り直してこれから私がジムに行ってきます。

夢に出てきた交差点も通りますよ。

夫には会えないってわかっているけどね。