ふと目にした短歌が心に沁みました。

 

  すこしばかり

  泣かせてくだされと

  亡き友の

  母がわが前にゐて

  泣きはじむ

       (加藤楸邨)

 

 

伴侶を亡くす辛さは身にしみてわかったけれど、

我が子を亡くすというのも、また違った悲しみなのだろうか。

 

 

私が中学3年生だった時、同じ部活の一学年上だった先輩が自死した。

その先輩が高校生になって間もない頃だった。

理由はわからない。

まだ多感な年頃だった当時の私には、衝撃的な出来事だった。

 

葬儀には大勢の人が参列したのを覚えている。

私の母が、

「親より先に逝くことほど親不孝なことはないよ」と強く言ったのも覚えている。

 

でもその頃の私には、死の意味がまだよくわかっていなかったと思う。

 

葬儀が終わってしばらくして、

同じ部活の同級生2人と、その先輩のお宅へ伺った。

私たちは特にその先輩にお世話になっていたので、

ご霊前にお花をささげ、ご家族ともお話がしたかったのだ。

 

 

その先輩のお宅で私たちを出迎えてくださったのは、

お母様とお兄様。

お兄様は1,2歳しか違わなかったと思う。

 

私の記憶に残っているのは、

そのお兄様がとてもしっかりしてらしたこと。

お兄様もまだ高校生だったと思うのだけど、

まるで喪主のように、

一家の主のようにふるまって、

私達3人を、まるで自分の後輩のようにあたたかく出迎えてくれた。

涙一つこぼさず、

穏やかに、優しく、私たちに接してくれた。

 

そして、もうひとつ覚えているのは、

あまり話さなかったお母様。

どちらかというと、おどおどした感じだった。

お母様とはその時会話をした記憶がない。

 

そして、

私たちがお線香をあげ、

お兄様が遺影の弟に向かって何かを語りかけたとき、

お母様は泣き崩れたのだ。

 

 

 

あのお母様は今もまだご健在だろうか。

どう過ごされているのかな。

おそらく、今まで一日たりとも我が子のことを思わなかった日はないに違いない。

自死と言う形で突然我が子を喪って、

自責の念にかられて苦しい日々を過ごされてきたに違いない。

あれから何十年もたつけれど、

どんなふうに日々過ごされてきたことか。

今更ながら胸が痛む。

 

もし「私は、あのときお焼香に伺った後輩です」と名乗って会いに行ったら、

お母様は、ハッとして、

「あの子も生きていたら、この人ぐらいの年齢になっていたはず…」と、

上記の加藤楸邨の歌に詠まれた母のように、泣き始めてしまうかもしれない。

 

 

夫は…

どうかな、今までそんな風に考えたことはなかったけれど、

たとえば10年、20年後に夫の同級生に会ったとして…

 

「夫も生きていたら、こんなおじいちゃんになっていたはず…」

 

とは、…思わないだろうな。

 

だって、私にとって、夫はもう亡くなった時のまま。

もう永遠に歳をとらない人になってしまったから。

私だけはどんどん齢を重ねていくけれど、

夫はもう永遠にあの歳のまま。

 

一緒に齢を重ねていきたかったな。

私だけ置いていっちゃうなんて、

とつぜんぷつんと糸を切られたみたいだ。

 

今の私は、糸を切られてどこに飛んでいくかわからない凧のようだ。

 

 

こんなこと言ってちゃいけない。

しっかりしなくちゃ。